crys
あの頃に戻れたら良いのに
あの場所に戻れたら良いのに
あの場所はもうないけれど
あの頃に戻れっこないけれど
だから
『B班!逃がした!くそッ』
手元のトランシーバーからの八つ当たりの様な報告に、メイズは眉をひそめた。
ぐるりと眼下を見渡せば、細い路地を"目標"が駆けていくのが見えた。
「G班了解、目標を視認した」
トランシーバー越しの声を無視して立ち上がる。
「B班!逃がした!くそッ」
思いのほか近くで声がして、クリスは駆け出した。
もっと引き離せたと思っていたのに。
そびえ立つビルとビルの間の路地は狭く、足がもつれて思うように走れない。
・・焦るな。
奴等からの逃亡は何度もやってきた。これから距離だけを稼げばいい。経験からしてさっきのB班が最後の追っ手だ。
「いける。そうだろ?」
クリスは自分に言い聞かせた。
しかしそれはクリスの外から答えられた。
「行けやしない」
「行けやしない、どこにも」
"目標"の前に立ちふさがったメイズは静かに繰り返した。
"目標"はたたらを踏んで立ち止まる。
「だから帰れ、クリス」
「行けやしない、どこにも」
突然クリスの前に立ちふさがった大柄な男の台詞は皮肉にも聞こえた。
走っていた勢いのままでは男に突っ込んでしまって早速捕まってしまう。クリスは男から距離をとって急停止した。
「だから帰れ、クリス」
『だから』?『帰れ』?
どこに。
「奴等のところに?」
クリスは鼻で笑った。言われて帰る位――逃亡する位のところに誰が帰るものか。
「『だから』僕は『帰る』んだ」
クリスには精一杯の皮肉だった。
「だから僕は帰るんだ」
"目標"は少年に似合わない大人びた冷笑でもって皮肉を返してきた。
メイズにもその気持ちがわからないでもない、が、捕獲"目標"たる彼――クリスの重要性と貴重さを思えば逃がす訳にはいかない。
「行かせやしない。君の文字は多くの者に必要だ」
たとえ彼を故郷から引き摺り出し、家族から引き離し、その故郷をなきものにしたとしても。
“君は文字を書けるのかい?”
“素晴らしい!”
“我々は再び文字による創作を手に入れた”
この国の人々は文字を書くことができない。ものを読むことはできても生み出すことはできない。
その国の人々が血眼になって探し出した一人がクリスだった。
文字を覚えていて、書き記すことができるたったひとり。
二人の間に小さな影が伸びる。小柄な人の影。影は細長い影を持っていた。
「そう。だめ。行かせない」
声はクリスのものでもメイズのものでもない。
メイズが小さく悪態をつく。
クリスが影の主がいると思われる方向―ビルの屋上を見上げれば、そこには見掛けない着物を着た少女が立っていた。
少女は遠目でも美しい黒髪だった。クリスが前に見たことがある日本人形なるものに似ている。能面のような無表情と暗闇に浮かび上がる真っ白い肌が人形を彷彿とさせる。
「オウカ、退け。ここは私の担当だ」
メイズが低く忠告するも、少女は聞き入れずに、抱えていた細長い袋から黒光りする鞘を引き出した。
刀。
少女を見掛けたことはままあった。クリスと同等の能力をもつ少女―ティルの監視役としてクリスのいた施設にいたのだ。でもあの袋の中身が刀だったなんて。
オウカが鞘から刀を引き抜いた。まっさかさまにこちらに落ちて来る。
オウカの登場は予想外だ。
メイズは舌打ちして、ビルから飛び降りた少女を迎え撃つ。
捕獲"目標"のクリスは棒立ちのまま、まるで殺してくれと言わんばかりだ。
メイズにとってクリスがどうなろうが関係ない。感心もない。だがこの国にクリスは必要である。そのためにはクリスを殺させる訳にも逃がす訳にもいかない。
オウカが着地する。それはまるでビルの屋上から落ちてきたとは思えない。そのまま地面を蹴って跳躍、自らの身長より長い刀を振り上げた。
オウカは次の瞬間クリスの頭上にいた。クリスにはオウカの動きが捉えられなかった。
振り上げられる刀は街頭の明かりを受けて白く光っている。
クリスはその光に見入っていた。
あの頃に戻れたら良いのに
あの場所に戻れたら良いのに
あの場所はもうないけれど
あの頃に戻れっこないけれど
だから
僕は、
fin.