ロッテの魔城

◆ ◆ ◆
 よく見た天井だった。
「あれ?」
 声が出る。ぼわんぼわん響く。
 声が出る? でも実際出ているのだ。空気を震わせている。死んだはずのわたしが、空気を震わせている。えっ、どういうこと?
 視界は天井に覆われている。背中に堅い面の感触がある。手のひらで触る。冷たい。堅い。少しざらついて、でこぼこしている。カートの車輪が、よくがたがた言っていたのはこのせいだったっけ。
 床に寝ているらしい。
 あ、あ、あー。
 声を出してみる。やはり声が出る。聞こえる。響く感触は、なににも吸収されていないから、遮るものがないから、だろうか。
 右を見て、左を見る。頭ごと動かした。
 よく見た壁だ。思ったとおりの、記憶のとおりの。少し汚れた白い壁だ。ここからでは手は届かない。ここは、倉庫のちょうど真ん中だろう。
 しかも誰もいない。
 わたしが最期にここを見たときは、在庫の山でぱんぱんだった。売れもせず、廃棄する金もない商品の在庫。借金も一緒に膨れあがって――。
「リリー? リリアン?」
 わたしだけがここにいるわけがない。リリーは死ななかった。おそらく。たぶん。わたしの後を追っていなければ。
 いや、死んだはずのわたしがこうしているのはおかしいのだけれど。
 返事はない。
 起きあがってみる。見回すと、やはり生前使っていた倉庫だ。隅に箱が三つ積み重なっている。
 立ち上がり、歩くことができた。
 これは、生きているということだろうか。死後の世界というものだろうか。死後の世界だとするなら、もっと別の場所が良かった。ここは、親友との思い出よりもずっと、辛い思いの方が多い。
「リリー?」
 いないような気がする。それでもいてくれたら嬉しい。ああでも、ここは死後の世界かもしれないのに?
 倉庫には一つしかドアがなくて、店舗に繋がっている。
 店舗はがらんどうだった。眩しい。まっしろいだけの床と壁に、蛍光灯の明かりが反射していた。
 ここは違う。蛍光灯ではなかった。こんなに広かっただろうか。
 店舗を出る。出てもここは地下だし城の一部だしダンジョンの一部だから、通路に出るだけだ。暗くてじめじめとしている。通路の右も左も、ずっと先まで続いているだけだ。点々と街頭が点いたりちかちかしたりしている。
 知り合いはいるだろうか。
 階層を一周しても、顔見知りの一人もいなかった。というか、そもそも人気が少ない。記憶の中ではもっと賑やかで、わきあいあいとしていた。
 嫌なものが脳裏をかすめた。頭を振って振り払う。誰かいてくれたら良かったのに。それならまだなんとか――。
『いつも誰かがなんとかしてくれるって、そう思ってるんでしょう』
 きついリリーの眼が燃え上がる。そんなことない。言い返すわたしの声の、なんて細々しい。
 嫌な思い出だ。嫌、というか、喧嘩したことがたくさんありすぎて、わたしはいつでも間違っていて、悔しいばかりの思い出だから。
 店舗に入り直す。真正面の戸はスライド式で、中が見えるガラス張りだ。外から見てもなにもない。中に入っても、なにもない。鼻先をあまいにおいがかすめていった。
「リリー?」
 リリアンの商品だ。彼女が仕入れて調製していた、なにに使うのかよく分からない調味料の粉。甘いけれど砂糖ほどじゃない。料理に使うには、甘みの弱い調味料だった。
 そういえばあれは、やけに売れた。
 わたしの仕入れる商品なんかは全然売れなかったくせに。
 リリアンがいる。いるはず。だってさっきは、こんなにおいしなかったんだから。
 倉庫へ繋がるドアを開けると、なにかがいた。
「「おうわ!」」
 ブリキのロボットだ。長方形の頭、長方形の胴体、ホース状の手足。一台しか見えないが、声はいくつかが重なっているように聞こえる。
「ど、どろぼう・・・・・・」
 ブリキロボは背丈が同じだ。力はかないそうにない。
「「違います違います! ワタシ、ワダツミ、です!」」
 ブリキロボは箱を漁っていた手をぶんぶん振った。壁に当たって壁がへこむ。
「ワダツミ?」
 知っている名前だ。記憶にある。リリーと店をしていたときに、世話になったロボットだ。もっと人型をしていたはずだけれど。
「「ご名答! さすがロッテさま! リリーとかいうゲスめが、最期くらいはよいことをしました! 再評価はしませんが!」」
 ワダツミは眼をちかちかさせ、くるくる回る。長方形の口は動かないから、あれはただのスピーカーだろう。
「最期? リリーがどこにいるのか知ってるんですか?」
「「ええ、モチのロンです! あのゲスめは死にました! ロッテさまをお金で生き返らせたために!」」
「えっ?」
「「リリーめは死にました! あのゲスの命の値段は、ロッテさまとぴったり同じだったのです!」」
「はいい?」
 ワダツミは同じことを言い換え言い換えわめき続けるだけで、あまりにもポンコツだ。ワダツミはこんなんだっただろうか。もっと、こう、理知的で紳士的だった気がする。ロボットでなければおつき合いしたいくらいだった。いや、リリーを毛嫌いしているのは変わっていないのだけれど。
「「もしやロッテさま、生き返りたてでこの世界についてお忘れなのでは! 不承ワダツミ、広大な魔王城について講釈垂れましょう!」」
 世界の成り立ちについては割愛いたします。ワダツミは深々と頭を下げる。そこが大事だと思うのだけど、今は言い返さないでおいた。
 城とはいうものの、ここはダンジョンである。ひとつの超巨大な城、その地下に、どこまでも深く広がるダンジョンだ。
 ダンジョンの部屋は、ほとんどが店である。たまに勇者へのボーナスポイント的な場所や、セーブポイント的な場所がある。
 店にはそれぞれ店主がいる。店主は皆「魔王」だ。そして、それぞれの店は「魔王城」である。つまりアンナロッテも魔王であり、この店もまたアンナロッテの城であるために魔王城である。
 勇者は勇者であるから、魔王の城を攻め落とそうとする。魔王は勇者を撃退しようとする。そのために、魔王は戦士を雇って勇者を物理的に倒したり、勇者相手に商談をしてお引き取り願ったりする。どちらにしろ魔王は、勇者から金をぶんどって城を運営し守ることを目的としている。
「「いくら稼いでいるのかランキングが出ます! 辛辣です!」」
 魔王同士は稼ぎを比べ合う。多ければ多いほど、名声を得るというわけだ。わたしはかつて、リリーと一緒に店を持って、そして潰した。
「「ええ、こんなところでしょう! メイビー! ささ、ロッテさま、お店の準備を致しましょう! 勇者が来やがるまで時間がありません!」」
 ワダツミもかつて勇者のひとりだったはずだ。それがなぜ、魔王側にいるのだろう。
 というか、勇者が来る? いや、魔王城だから来るだろうけど、店をやるのか? ここで? また?
「リリーが生き返らせてくれたのは嬉しいけど、それとこれとは別よ。わたしは同じことを繰り返すつもりはありません」
「「恐れることはありません! 不承ワダツミ、ロッテさまをお手伝い致します!」」
「えっ・・・・・・いや、普通に恐いです」
 ワダツミの講釈はおおむねわたしの記憶と一致していた。このブリキロボはいてもマイナスではないだろうけど、プラスでもなさそうだ。
「「えっ・・・・・・」」
 ワダツミはしょんぼりした。倉庫の隅に体育座りになり、のの字を書き始める。こうして見るとかわいらしい。
「それより、リリーのことを教えて下さい。わたしが死んでからひとシーズンは経っていそうですけど」
「「つーん」」
 ブリキロボはそっぽをむく。
「「開業するなら話してあげないこともアリマセーン」」
 うっ。リリーのことは知りたい。だって命をなげうって生き返らせてくれたのだ。とても知りたい。どうしてリリーは、わたしを生き返らせようなんて考えて、実行したのだろう。この世はお金があればなんでもできる。なんでも。死んだ命だってお金で買えるに違いない。だけれどそれには莫大なお金が必要で、とうてい不可能だから、この世では死人がそう簡単に生き返らないのだ。
 リリーは、どうしてそこまでして。
「わかりました。店を開けます」
「「ワタシの説得が届いたのですね! ワダツミ、やりました!」」
「違いますけど」
「「しょぼーん」」
 躍り上がったワダツミが、再びのの字を書き始める。声もうるさいが、動きもうるさい。大きいからなおのことだ。
「リリーを生き返らせるためです。それにはお金が必要ですから」
「「なるほど、さすがロッテどの! 発想が常人のそれとは違います! あのゲスと同じ点に至ったところはしゃくに障りますが!」」
「そうね、まずはあなたを殴れる頑丈なバットが必要でしょう」
「「もう、ロッテどのったらー!」」
 ウフフ、小突いてきたブリキロボの、U字型の手(手・・・・・・?)を振り払う。
「「でしたら、このワダツミ、とっておきの案があります! これです!」」
 ワダツミはうきうきと漁っていた箱へ駆け寄り、しろいものを勢いよく掲げた。
 あまいにおい。視界がしろくなる。しろい粉が、ワダツミの振る手を追って幕の軌跡を描く。
「「やべっ、袋が! げほっ、げほげほ!」」
「あなたロボットでしょう!」
 むせるわけないじゃない! ツッコミは、わたしにはむせて言うことができなかった。


***
 勇者が解き放たれた。
 ごーん、ごーん。天井がびりびり震える音がする。この超巨大な城のどこで鳴っているのか知らないが、とにかくこれはダンジョンに勇者が入ってくる合図だった。それは今も変わらないらしい。
 どきどきする。
 仕入れも店も、あれから走り回って間に合わせたものの有り合わせだ。売ることができるだろうか。今度こそ。
 店の前を通り過ぎていく影ばかりが見える。ああ、また、入ってももらえない。
「「ロッテどの、ロッテどの」」
 倉庫に閉じこめたワダツミの声が店にまで響いてくる。
 ロッテは傍に立てかけた金属バットを取った。からから、床に擦らせながら、倉庫のドアへ向かう。
「「売り上げはいかがでしょう! なんだか嫌な音がしますが!」」
 うっ。バットを持つ手の力に迷う。このうるさいブリキロボをボコボコにするのは、今は八つ当たりだ。
「黙ってて下さい。お客さんがびっくりします」
「「ワタシをお店に出して下されば! 解決する問題ですが!」」
「うるさい!」
「「しょぼーん」」
 ついドアを蹴った。ワダツミがいればなおさら、客は入って来ないだろう。このロボは黙っていられないんだから。
「あの、」
「へっ?」
 どちらでもない声に反射的に腰が引けた。店の入り口に人がいる!
 気弱そうに立つ勇者は、店内を見回して、
「ええっと、また来ます」
 出ていってしまった。そそくさと。
 しまった。またやってしまった。また。前に散々やって、散々リリーと喧嘩したのに。
 落ち着け。落ち着くのよアンナロッテ。ひとまず来たお客を逃がさないだけでも。
 店に並べているのは食べ物だ。単価が安いだけに、量が売れないと利益は出ない。劣化はするけれど、まとめ買いで割引が効くからこれに決めた。
 仕入れたものは商品の食べ物、あと倉庫の設備だ。量はあまりないが、クッキーも作った。
 これはワダツミのアイデアだった。
 ――リリーのクズめがあこぎな商売をしていたこの『魔法の白い粉』を仕込んだお菓子がいいのではと!
 リリーにも何度か言ったが聞き入れてもらえなかったのだとも。何度か言ったという点がまず信じられなかったが、確かに、リリーの粉はよく売れた。ぼったくりでも売れていたのだ。それに、味が無いわけではないこの粉を混ぜるのがお菓子だというのも悪くない。元から甘いのだから、甘さを上乗せしてしまえば、商品の味の邪魔をしないじゃないか。
 そうして作ったクッキーは、ちょっと違法な効果があった。
 なんだか気分が高揚するというか、目の前に大金が見えたような気になるというか。
 幻覚剤? 幻覚剤だと? こんなものを売っていいものだろうか、捕まらないだろうか。というか自分用にちょっとほしい。売るのがもったいない。
 しかしワダツミいわく、
「「ロッテどの、これは合法です。ほんのすこーしだけ魔法がかかるだけの、魔法アイテムと考えれば問題ナッシングでしょう、メイビー」」
 メイビー。思わずそう繰り返してしまった。
 この世は金が全てだ。こんなものかわいいものだろう。死人を金で買い戻そうとしている分際で、合法違法など、気にするのが馬鹿なのかもしれない。
「おらあ、金よこさんかい!」
 次の客はドアをぶち破って入ってきた。カルマにとらわれている悲しい勇者だ。負けていられない。びびったら商品を持ち逃げされてしまう。
「いらっしゃいませ! お客様、この世に絶望してはいませんか?」
「だからどうしたんだよ!」
 きれた勇者が火を吹いた。物理的に。店も燃えるし、かすって腕がじりじりする。だが、ここで売らなければ、わたしは。
「こちらは、明るい未来がミエールクッキーです! いっときだけでも明るい未来をお約束します!」
「んだとお・・・・・・? へっ、試してやらあ」
 勇者はコインを指で弾く。会計皿に収まった金額は、価格ぴったりだ。
 勇者は袋を破き、クッキーをもぐもぐする。そして、すすり泣き始めた。
「か、かあさん・・・・・・! すまねえ・・・・・・!」
 いったいなにを見ているんだろう。幻覚は見ている本人にしかわからない。
 クッキーの効果が切れたらしい勇者は、ひとつで足りずにもう一つ買っていった。
「すまねえ。おれ、本当はこんなことをやりたくてやってたわけじゃねえんだ・・・・・・。いや、今更だけどよ・・・・・・」
 なぜだか更正したふうなことを言い残して、彼は壊したドアを入り口に立てかけ帰って行った。
「う、売れた・・・・・・」
 なんだかよくわからなかったが、とにかく売れた。売れた。
「「やりましたなロッテどの! さあお祝いを! ここを開けて!」」
 がたがた、倉庫のドアが壊れそうなほど揺れている。だけど、怒る気にもならず放っておいた。その後も客足があり、売り込むことで頭がいっぱいだったからだ。


***
 初回の売り上げは微々たるものだった。
 利益が出ただけ儲けものだろう。というか、売ることができたことが大事だ。
 うん。そう思うことにする。マーケットで見覚えのあるロボットが喧嘩を始めたが、そう前向きに考えることにしたので、ロッテは知らんぷりして帰路についた。
 次の割り当ても、勇者の帰還・ランキング集計の後同時に決められる。
 次はカルマにとらわれた勇者が多く来る割り当てだった。滑り込みで出した希望が通っていたことにほっとする。それに、このためにまた店のコンディションを整えなければ。
 行き当たりばったり、されるがままになっていた前回――リリーと店を構えていたときとは違う。今度こそ、ひとりでやりきらなければいけない。
 ひとりきり、というわけではない。
 ボディがぼこぼこになったロボットが視界の隅をちょろちょろしているのを見ないことにして、少し離れたマーケットを振り返る。
 つくしくん・・・・・・つくしちゃん? に挨拶をしておくべきだろう。
 試しに作ったクッキーをいたく気に入ってくれた可愛らしい男の子だ。
 お互い知り合いもいないから、姉妹提携を組んだのだった。可愛い顔をしてなんだか勢いと思い切りがすごい男の子で、ランキングに載るやり手だ。
 提携を組んでも、城の大本に便宜を図ってもらえるわけでもないのだが、知り合いがいるというのは心強い。
 マーケットに彼の姿はないようだった。ワダツミが起こした騒ぎを嫌がって帰ってしまったのだろうか。
 店は大して離れた場所にあるわけではないらしいから、尋ねてみるのもいいかもしれない。
「「ロッテどの! あいつらけちょんけちょんにしてやりましょうよ!」」
「なんでよ。騒ぎなんか起こさないでよね」
「「そんな! ワタシはロッテどのの名誉のために」」
「そんなこと頼んでいません。とにかく、次の準備をしなきゃ」
「「ロッテどの・・・・・・」」
 目立ったことはしていない。だから、悪い噂だとかけなされるとか、そういうことが起こるわけがない。ただちょっとこのポンコツが、敏感になっているだけのことだ。
 マーケットの目録を精査して、仕入れに再びマーケットへ行った。ワダツミは倉庫に閉じ込めてきた。
 前回の売れかたから、売り上げはあまり望めそうにない。でも、設備投資をしないと商機さえ訪れない。
 今回は赤字覚悟だ。いくつかの設備を発注する。
 マーケットは出店の様相をしている。ロッテも作ったクッキーを出品しているが、自ら売りには出ていなかった。通信販売で、注文を受け付けることにしている。
 直接売りに出てくる者もいるようだった。階層をいくつかぶちぬく広場は端から端が見えないほど広大で、仕入れとは別に小遣い稼ぎの出店も出ている。祭りみたいだった。
 じゅーじゅーものが焼ける音だとかにおいだとか、呼び込みの声だとか。
 マーケットは騒がしくてざわめいていて、自分がとてもちっぽけに思える。少しの笑う声にびびっている自分がいた。あのポンコツの言う事なんか、信じていないのに。
「お嬢ちゃん、食べていきな! おいしいよ!」
 やたら野太い声が、はっと耳を貫いた。
 見れば、精悍なおじさんがねじりタオルを巻いて汗だくになった屋台がある。
「ぼんじり」
「おう! ぼんじり!」
 屋台にはぼんじりとしか書かれていない。おじさんはにかっと笑った。精悍なのに愛嬌がある。少し父に似ていて、少しむかついた。
「なんですか、ぼんじりって」
「鳥のケツ」
「鳥の」
 鳥のおしり。香ばしい焼けるにおいは、脂のにおいだ。きっとしょっぱい。
 屋台にはおじさんが立って前にする焼き台と、焼いた串が詰まったパックが山になっている。
 おじさんが焼いているのは串だ。掌ほどの長さの串に、親指大のまるい肉がいくつか刺さっている。それを彼は、タレに入れたり塗ったり、ひっくり返したりしている。
「ほら。食ってみな」
 ずい。一本持たされては返せない。
 赤茶色く、脂がテカテカするまるい肉は、近くで見ると肉らしくない。タレが付いていないと白いようだ。
 噛んだ食感はぐにゃっとして、口の中に飛び出る脂が熱い。
「あっつ!」
「ははは。うまいだろ?」
 思わず言葉が出て、おじさんに笑われて恥ずかしい。
「これ、脂ですね」
 なかなか噛みきれない。ずっとむぐむぐ噛んでいる羽目になる。だけれどおいしい。ずっとクッキーの失敗作を食べ続けていただけに染みる。
「まあな。でも食べやすいだろう? もう一本」
「えっ、いいです」
 そういえば一本お金も払っていないのに食べてしまった。これ以上を勧められて、ただの親切でないかもとはっとした。
 もしかして、あの山を全部仕入れろとか・・・・・・。
「魔王なんですか?」
「いいや。ただの祭り好きさ」
 彼は缶ビールを開けて飲み始めた。明らかに儲かっていないけれど、気にしていないようだ。むしろそれを楽しんでいるようにも見える。
「シーズンが始まったばかりだからなあ。楽しまなきゃ損だってね」
 ぐびぐび。ビールを飲み干すおじさんの喉は汗まみれで、ススで汚れて、ぺらっぺらのシャツ一枚もくたくただ。苦労がにじみ出ているのに、輝いている。
「すごいですね。うらやましいです」
「お嬢ちゃんは、これからだよ」
 これから。おじさんの眼はなにか見透かしているようで、わたしは見ないふりをする。
 これまで、があったのに、まだ立派に経営できない。そんなことを、知りもしないくせに。
「見てたよ。嬢ちゃん、変なロボットを連れていただろう。あいつ、嬢ちゃんが変なの連れてるって囁かれてるのを聞いちまったんだよ」
「そう、だったんですか」
 変なの。確かに。
 でも、あのポンコツの言っていたことは嘘ではなかったのか。
「連れてきてないみたいだけど、あいつはあいつなりに嬢ちゃんを気に掛けてんだよ。大事にしてやんな」
 それは、そうですけど。
 わたしはもごもごと、うまく言い返せなかった。ワダツミは、自分のために怒ったんじゃないだろうか。それを恩着せがましく言っただけで。
「まあその辺のモブの俺がなんのかんの言ったところで、信じちゃくれないだろうけどさ、覚えておいてやんな。あと、五パック二〇〇ね」
「えっ、高!」
 粘って値引いて、一八〇にしてもらった。


***
「「ロッテどの! おかえりなさい!」」
 倉庫に閉じ込めたはずが、ワダツミは店にいた。ぼんじりに歓声を上げている。食べられないだろうに。
 なんだかちょっと後ろめたい。
「ねえ、その、ぼんじりのおじさんに聞いたんだけど」
 ワダツミは口の周りをタレでべったべたにしてぼんじりを食べている。その口、スピーカーだと思ってたんだけど?
 そっちが気になってしまって先の言葉に迷った。だが、こんな脳天気のポンコツにいつまでも後ろめたさを感じていたくない。
「あれ、本当だったんだ。わたしの名誉を守ってくれたっていうの」
「「ええーいやーそれほどでも! ありませんけど! チラッ! ありませんけど! チラッ!」」
 謙遜しているふうで、実はものすごく構ってほしいふうに、ちらちら目配せ(のつもりでこちらを見てくる)をしてくる。とてもうざったい。うざったいが、邪険にしていいものでもない。
「疑ってごめんなさい。ありがとう」
「「ロッテどの!」」
 それでも、感極まったワダツミが抱きついてくるのはバットで叩いて止めた。


***
 ワダツミを叩いて延ばして作った床材は、なにかと役に立った。
 叩いて延ばしたくせに、ブリキロボのかたちをしたワダツミが倉庫番をしている。
「「あーっ踏まないで! いや踏んで! 踏んでください! 床のつとめ!」」
 店の出入り口に設置したワダツミ(ゆかのすがた)は元気にわめいている。
「「ロッテどの! ロッテどのー? そちらのワタシがご迷惑をかけていませんか! ワタシ心配であります!」」
 わたしはなんでこんなものを作ったんだろう?
 ロッテは勇者を待ちながら、一周回って澄んだ頭で自問した。答えは出なかった。
 ワダツミを叩いて延ばして電気床にしたのはストレス発散のためでもあったけど、商機を増やすための投資でもあったはずだ。このせいで今週はお菓子を作れず、在庫だけで戦う羽目になっている。
 それがまさか、あのポンコツロボが増えるなんて思わない。おさらばだと思った。いや、床材にしてもしゃべっていることもおかしいのだけど。
 参った。店に入りたそうだけど入り口につかえて入れないゴーレムが、ワダツミ(ゆかのすがた)にびっくりして走り去っていった。
「カ、カデンセイヒン・・・・・・」
 捨てぜりふが妙に寂しい。
 後から繰り返し来店した、掃除機によく似たモンスターは口車によく乗ってくれた。次々買っていってくれるのは気持ちがいい。
「固い・・・・・・なんて固い食べ物だ・・・・・・」
 つう、眼とおぼしきところから涙と思われる液体を流して、清々しく出ていく。ここの勇者はみんなそんなにお腹が減っているのだろうか。
 と、いうか。
「聞いて下さいよ弥生さん! 食物はなんでもカルマから解き放つ効果があるって! あのポンコツそんなことひとっことも!」
 商戦のあと、仕入れの帰りにぼんじり屋台に寄った。今日も見事にぼんじりしか焼いていないし、売れ残っている。
 店主の弥生さん――汗塗れでぼんじりを焼き続ける陽気でやけに精悍なおじさんは苦笑いで、
「ロッテちゃんよ、そりゃこのブリキのせいだけじゃあねえよ。嬢ちゃんの調べが足りなかっただけの話だ」
 いつも通りの正論をぶつ。その通りなのはわかるが、わたしが言いたいのはそういうことではなかった。言いたい、というか言ってほしいことは。
「わたしの周りにはいっつもこういう人しかいない・・・・・・」
「「ワタシはロッテどのの味方ですよ! いつでもどこでもどこまでも・・・・・・!」」
 肩を叩いてきたワダツミの、タレまみれの手をそっとどける。味方がこれだけだなんて。
「なにがショックって、リリーの粉の効果じゃなかったことなんですよ。アテが外れちゃって」
 リリーの粉による効果なら、付加価値になると思っていたのに。
「リリーの粉? ああ、『性悪リリアン』の魔法の粉」
「『性悪リリアン』?」
「「あのゲスの通り名ですロッテどの! 知る必要は毛ほどもないかと!」」
「ほーらぼんじりよポンコツ」
「「ワ、ワタシを買収しようなどと考えないことです! ぼんじりください!」」
 ワダツミは、リリーが絡むと話を逸らす。このブリキ以外の口からリリーの名前が出たのを聞いたのは初めてだった。
 ぼんじりをブリキの口に押し込んで、弥生さんに先を促した。
「あの粉は場を荒らすってんで嫌われてたな。なにせギリギリもんだ」
「えっと、それはつまり」
 ごくり。わたしは唾を飲み込む。恐ろしくて口には出せないが、やはりあの白い粉は。
「魔法薬の類だってのは、正真正銘だったらしい。嫌われたのは売り方の方さ」
「リリーが、そんなにあこぎな」
 弥生さんは静かに頷く。
 信じられない。リリアンは優等生だった。そりゃちょっとは道を外れたこともしたけれど。
 リリーの粉は正真正銘の魔法薬だから、お菓子に入れても問題はない。
 でも、リリーの粉の効果で、勇者を更正しているわけではない。
 参った。
 店の厨房でわたしは立ち尽くした。ワダツミは倉庫で充電中で、店にはわたしひとり。目の前には粉類と卵とバター、リリアンの魔法の粉。
 この粉を使う意味は、あるだろうか。
「「あーっ踏まないで! いや踏んで! 踏んでください! 床のつとめ!」」
 ワダツミ(ゆかのすがた)の声が虚しく響いている。


***
「奇跡キック!」
 勇者の蹴りが、すんでのところで生き延びていたカートに直撃した。
 爆発四散するカート。辺りにはぼんじりが焼ける脂のにおいが立ちこめた。
 わたしは床に手を突いて、立ち上がれないでいる。
 そんな。これで今回は終わりだなんて。
 魔王城でものを売るルールは簡単だ。売ることが出来なくなったら売ってはならない。
 じめじめした魔王城の通路。数多の魔王が店主を務める城の灯りが点々とちかちかしている。道行く勇者はそんな灯りに吸い込まれていく。出てきたときには顔は明るく、手に一杯の商品を抱えて。
 ここ最近、設備にばかり回していたお金のせいで利益が下がるいっぽうだった。
 投資する割に、回収するほど売ることができない。
 前にもやったことだ。そのときはリリーがいた。まだわたしが死ぬ前のこと。
 これではいけない。もうリリーはいないのだ。わたしを生き返らせるために死んでしまった。
 だから、今度はひとりで商戦を戦いたい。この、わたし自身の手と足で。
 今回はそのための新しい戦略だった。店を構えて待つのではなく、カートに商品を載せ、勇者を見れば売り込みに行く。
 だというのに、猫にひっかかれたり、勇者に杖で殴られたり、蹴られたりでカートは粉々。売ることが不可能になってしまった。
 弥生さんから仕入れた――もとい、売りつけられ、消費しきれないぼんじりをかき集める。幸いパックから出てしまった数は多くない。次回売る在庫はまだ十分だ。
 この戦法はだめだ。向いてない。もっと向いている方法を探す必要がある。
「「ロッテどのー!」」
 ぼんじりのにおいに釣られたらしいワダツミが、同情じみた声を出して駆け寄ってくるのが聞こえる。
 そろそろ大きな動きがあるらしい。売り込みの大チャンス。でも、どうしたらいいのか、暗闇を手探りしてみても手応えがない。


***
リリアンの日記
第五週目

 ひどい目に遭った。いちゃもんつけられるのはいつものことだけど、手を出してきたのは初めてだ。まったく、あんたらの商品が売れないのはあんたらのせいだっつーの。アタシのせいじゃない。それをいちいち。
 だいたい、文句言われるほど売れてもいないんだから。不買してるのも、禁断症状が出るなんて噂流してるのも、あいつらに決まってる。
 禁断症状なんて出ない。この粉は、そんなものじゃない。ただの、ある種の幸せを結晶化しただけのものなんだから。


***
 ページが震えている。めくる手が震えているから。わたしはノートを閉じた。長く息をはく。吸う。
 リリアンの日記を見つけたのは、たまたまだった。粉を片づけていたときだ。ワダツミが漁っていた箱に、使うつもりでいた粉と、使いかけの粉をしまっていたときだった。箱の隅で、袋と袋の間から角を覗かせていたノート。古ぼけた、ぼろぼろの、見覚えのあるノート。
 リリーの日記は、シーズンの一週目から書かれていた。几帳面なリリーらしい。でもそのわりに、内容はぼやきや愚痴の類だ。なにがあったのかとか、なにを考えていたのかまではわからない。
 それに、一週目、最初のページにさえ、アンナロッテの名前は一度も出てきていない。
 いくら深呼吸しても息が詰まる。リリーにとって、ロッテは、わたしは、わたしが死んだことは、大した出来事ではなかったのだろうか。
 そうかもしれない。
 リリーとは喧嘩ばかりだった。几帳面で、なんでもそつなくこなして、ぶっきらぼうなリリーに、わたしは一方的に懐いていただけだったのか。
 それなのにリリーはわたしを生き返らせてくれた。それも、命と引き替えに。
 リリーになにか起こったのかもしれない。いや、そう考えるほうが妥当だ。わたしが死んでから、リリーにはなにかが起きた。だから彼女はわたしを生き返らせなければならなかった。
 なぜ? どうしてわたしだったのだろう? 生き返らせてまでして、なにが必要だったのだろう?
 リリーになにが起こったのか、知るためにも、この日記を最期まで読む必要がある。それに、予感がある。この日記には決定的なことは書かれていない。だから、ためらう理由など、ないはず。
 わたしはリリーの日記を撫で、ページの隅に手をかけた。
 ずどどどど。ずばん!
「「ロッテどのー! ひどい! あんまりです! 弥生氏の元に置き去りにするなんて! 泣いちゃいますので!」」
 店の戸をぶち開けたワダツミが、ぼんじりのたれをまきちらしわめく。ポンコツの足下で、ワダツミ(ゆかのすがた)が自らの勤めにひいひい言っているのも合わせて耳鳴りがした。
「「あっ、あっ、ロッテどの? ステイ! ステイ! 金属バットは痛いので、優しくソフトな慰めを! 希望します! プリーズ! あっ、あっ、そんな、ヘルプ! ヘルプ!」」
 ワダツミを叩いて延ばした電気床が増えた。以前作ったものと重ねて使うと、防御力が増えそうな感触がする。声も二重になってうるさいけれど。
 そんなワダツミを店頭に設置したのに、売り上げは上々だった。なにが起こるかわからない。
 次回は大量の商品が必要になるらしい。リリーの粉が、まだわたしには手放せそうにない。


***
 リリーの日記が消えた。
 あれから、最後まで読まなくてはとわかっていても手が出せずにいた。もう少し自信が持てたら。売り上げが目標に達したら。来週になったら。そうして先送りにしていたら、こつぜんと姿を消していた。
 こんなんだから、わたしはいつまで経っても一人前になれない。
 気が重いときはパンがいい。生地をこねるのに夢中になれて、悩みを忘れていられるから。
 冷やしたバターを延ばして、生地で包む。たたみ、のばす。たたんでのばす。
 悩みは頭の片隅に引っ込んでしまう。でもその存在はじっとり感じられて、考えることはパンのことだけ、他のことを考えることはできない。
 だから、これができあがってしまったら。
 手が止まった。
 できあがらなければいい。永遠に完成しなければ、でも、そんなの。
 ぽんぴーん。
「ぽんぴーん! 甘いのちょうだい! ロッテちゃん!」
「でっかい座布団がいいなー」
 ぽんぴーん、は来店チャイムだ。ワダツミ電気床を足蹴にして、メイド服姿の少年がひとり立っている。おんぶ紐で背負ったくまのぬいぐるみの手が、彼の肩越しに見えた。
「いらっしゃい、つくしちゃん。すーくんも」
 手を離せず、作業台から声をかける。つくしちゃんはメイド服を着ていてかわいいし、女の子にも見えるがれっきとした日本男児らしい。日本男児ってなんだろう。ワダツミが確かめたとかうわごとを言っていた。
 彼の相棒のすーくんは、しゃべって動くくまのぬいぐるみだ。かわいい。もふもふでふわふわでもこもこしていて、存在するだけで癒される。ブリキと交換してほしい。
 彼らは、わたしのお店のの姉妹提携先だ。お茶会仲間でもある。
「すーくん見てよ、ロッテちゃんが謎の白い物体をこね回してるよ。親の仇みたいだよ」
 彼らの会話を見ていると飽きない。明るくて、前向きで、エネルギーに満ちている。
 生地を切り、チョコを巻く。天板に並べてしばらく焼くだけ。
 焼けるまでの間に在庫のシュークリームとマカロンでお茶にした。すーくんの大好物のパンケーキは有り合わせがなく、次の機会に作る約束をする。
 ちょうど食べるものがぼんじりしかなくなった頃、パンが焼きあがった。
 パン・オ・ショコラ。デニッシュ生地でチョコを包んだだけの、シンプルなパンだ。それでも焼きたては表面はサクサクと、中身はしっとりとして、とろけたチョコがおいしい。
「なくなっちゃったものは仕方ないよ。だから、今できることをしなくっちゃ」
 つくしちゃんは顔を粉砂糖だらけにしながら神妙に言ってくれた。隣ですーくんが粉砂糖にげほげほしている。つくしちゃんは顔に似合わず中身はびっくりするほど男前だ。
 それは、そうなんだけど。わたしはまだ口がもごもごする。腑に落ちない。
「それはそれ、これはこれだよ。手がかりはそれだけじゃないでしょ? ワダツミに聞いてみるとか」
「「「「呼ばれた気がしますぞ!」」」」
 入り口の電気床がひどいエコーをきかせてがなる。バットを投げつけると大人しくなった。
「彼はなにか知ってると思うな。あれ? 彼女なのかな? すーくんはどう思・・・・・・すーくーん!」
 パンをのどに詰まらせたすーくんがぴくぴくしているのを、つくしちゃんがばんばん叩く。
 すーくんはくまのぬいぐるみだ。どうしてパンを食べることができるんだろう。本来生きていないものが、生きて、のどを詰まらせて死にかける。
 ぽろっ。すーくんの口からパンが転がり出た。どうやって飲み込んだのかわからない大きさだ。彼の頭くらいの大きさがある。あれ? 彼女かもしれない?
「ねえ、つくしちゃん。すーくんはどうして生きてるの?」
「えっ?」
 二人は眼を丸くしする。しまった。言い方が、他にもあるのに。
「なんでだろう・・・・・・」
「えっ」
 二人は腕を組んで首を傾げる。
 つくしちゃんとすーくんは揃って首を傾げた。角度も表情も同じで、わたしは思わず吹き出す。
「ひどい!」
「ひい・・・・・・! 怒った顔までそっくり!」
 一度ツボに入ってしまったら、なにからなにまでおかしい。ぷよぷよのお腹がこれで細くなりそうだ。
「ひどいよ! じゃあロッテちゃんもワダツミそっくりなんだから!」
「エッ、それはやめて! ごめんなさい!」
 わたしは気がついたら床に手をついて膝をつき、鼻先を床にぴったりつけていた。反射で素早く土下座する技術は死ぬ前に身につけたものだ。伊達に一度死ぬほど倒産していない。
「そういうとこだよ・・・・・・」
「なに?」
「ううん、なんでもない」
 つくしちゃんがぼそっと呟いたのを聞き逃すわけがない。すかさず聞き返すと、彼は可憐に微笑んだ。かわいい。リリーほどではないけど。でもどこかなんとなく、哀れみの欠片が見えた。
「そうだよ、ワダツミ! えっと、彼? も生きてるわけじゃん。すーくんに聞くよりずっとわかりやすいと思うな」
 さっきから名前が出る度に「「お呼びですか!」」と大声を上げる電気床を見遣る。ちかちか点滅する、眼と思われる点、食べたものがどこにいくのか分からない口。確かに、このロボットは生きているみたいだし、たぶん死なない。分裂だか増殖だか、そんな気味の悪いことをこそこそしているみたいなのだ。


***
「「ひゃああああああ」」
 ワダツミが情けない悲鳴を上げているのが聞こえる。店にいるはずのワダツミ(ゆかのすがた)もおらず、全てのワダツミは倉庫に集まっているようだ。
 嫌な予感がする。
 つばを飲み込んで倉庫のドアを開けると、腰の引けたワダツミの目がすがりついてきた。そっと無視して、
「え・・・・・・なに、これ」
 倉庫のど真ん中に出現したものに釘付けになってしまう。
 黒い金属の箱だ。へこんだり擦れた傷があったりする。わたしと同じ背丈のワダツミと同じ高さをして、横は三人分くらいだろうか。
 長方形の箱の上面にハッチがあった。
「ワダツミ、これどうしたの?」
「「わかりません! わかりません! ワタクシども、集会をしていたのですが、そのさなかずどどんと現れたのです!」」
 分身するワダツミたちが毎日集会をしているとか。想像したくないけど目の当たりにしている。ちょっとした地獄かもしれない。
「現れたって」
 現れたって。
「「あっ」」
 ワダツミの声はなにかまずいことに気がついたときみたいな、低く気まずい声だった。
「「いえっ、なんでもありません! ありませんったら! これはワタクシどもでサクッと送り返しておきますので! お気になさらず!」」
「送り返す?」
「「ひいっ! ロッテどのステイ! 待って待ってお待ち下さい! 世の中には知らない方が良いことというものが」」
『ワダツミ?』
 ざらついた男の声がワダツミを遮った。「「ひいっ!」」ワダツミが悲鳴を上げる。
「「ワタシを壊しに来たのですか! ワタシを滅ぼしてもなんともなりませんよ! ええ! 自慢じゃありませんが!」」
『ふん。そのようだな。全く、元が同じでもこうまで無能に成り下がれるとは、感嘆に値する』
「「そうでしょうそうでしょう! だから出て行きなさい!」」
『どうだかな。こちらにもこちらの事情というものがある。おや、そこの女性は? わたしは《創造主》(クリエイター)。そこのポンコツの上位種だ』
「上位種? あ、えっと、わたしは、アンナロッテといいます。ロッテと呼んでください」
『アンナロッテ?』
 男の声――《創造主》ははっとして、次に笑った。
『《海神(ワダツミ)》にアンナロッテとは、随分運命的じゃないか! どうりで引っ張られたわけだ!』
「「なにをわけの」」
『ああ、アンナロッテ、ロッテ。ハッチを開けるから、中の少女を助けてやってほしい。彼女もまた、君と同じアンナロッテという名をしている。アンナだよ』
 《創造主》はきいきいするワダツミを無視してハッチを開けた。がこっ、ハッチが少し持ち上がる。
 はしごを探して取り付くと、ワダツミが慌てて制止してきた。
「「ロッテどの、いけません! そやつの言う事を真に受けては!」」
「女の子を助けてほしいって!」
 《創造主》の声は聞いているとざわざわする。だけど、アンナロッテ――アンナのことがどうしても気になった。嫌な予感がする。
 重たいハッチを開けると、むっとするにおいがした。つんとする、汗と、血のにおい。中は暗い。だけど、倉庫の灯りで少女がいるのはわかった。頭を投げ出し、首を晒す少女はじっとりとあかく染まっている。