アンナロッテの霧中

◆ ◆ ◆
「「ロッテどのう・・・・・・実は折り入って、お話ししたいことが・・・・・・ありまして・・・・・・」」
 アンナが戦場まで迎えに来てくれた後、ワダツミとふたりで乗ってきたのだという領域瞬間霊送箱で、わたしとワダツミは聖魔領域へ帰った。
 その間ワダツミはずっとちらちらと、わたしの顔色を窺っていた。かと思えば、ぱっと決意を決めたように直立不動になる。
「いい、けど・・・・・・」
 ワダツミがこうして切り出してくるのは初めてのことだった。なんだろう。わたしがいない間に、赤字が膨らんでもうどうしようもなくなったとかだろうか。いつにない気迫につい頷いてしまった。
「「ええと始めにですね」」
「始め? いくつあるつもりでいるの?」
 ええっと。ワダツミはU字型の手で指折り数えるそぶりを見せた。「「ひい。ふう」」
「「それは、ロッテどの次第かと・・・・・・ええと、どれを一に数えるかという話しになってしまいますので」」
「わかりました。もういいです。全部聞きますから」
「「ロッテどの!」」
 ワダツミがぱっと顔を輝かせる。残像領域から乗ってきた領域瞬間霊送箱は、わたしの店より数階層下に着いたらしい。巨大な魔王城の地下で蟻の巣のように広がった廊下と小部屋のひとつで、ワダツミがいつになく足早に歩く後ろに付いていく。
「「まずはじめですが、ひとつの大きな商戦のチャンスを逃しました」」
 危機的状況にある場所へ出向いて商品を売る一大チャンスがあったらしい。物資がなにもかも不足しているから、なんでもいくらでも売れるチャンスだったそうだ。領域瞬間霊送箱はそこへ行くための手段として用意されたものだとか。
 アンナとワダツミが、連絡の取りようがない残像領域へ行くために使ってしまったから行けなかった。そういうことらしかった。
「そうだったんですか。そこまでして来てくれただなんて・・・・・・」
 アンナもワダツミも、あの戦場の中までわざわざ迎えに来てくれた。しかも、城の大本営からものを奪うような真似までして。
「大本営から制裁があったとしてもそんなのへっちゃらです。わたしを助けてくれたことに比べたらそんなこと。そこまで気にすることないよ、ワダツミ。ありがとう」
 ワダツミは頭を掻いてちょっと笑ったように見えた。ロボットだから笑えようもないはずだけれど。
「あれ、そっちじゃ」
「「いいのです。ロッテどのに、見ていただきたいものが、こちらに」」
 ワダツミは声をかたくして、肩越しに一度振り返ったものの数歩先へ進んでいった。
 一階層降りて、しばらく歩いたところの部屋に入った。
 鋼鉄製のドアだ。プレートも窓もない。普段なら管理用の部屋かと思って素通りするところだ。
 中には操縦棺がひとつ、真ん中に横たわっている。
「これは、《創造主》と同じ・・・・・・?」
 太いコードが何本も延びている。奥へ。ワダツミは操縦棺へ近付いていって立ち止まり振り返った。
「「これがワタシ、《ワダツミ》です。本体、と申しましょうか。操縦棺というよりは、先ほどの領域瞬間霊送箱のほうが近いかもしれません」」
「本体?」
「「いかに《海神》といえど我々はデータですので。ワタクシども――ブリキロボットは本体の《ワダツミ》をコピーしたものであったり、不要と判断したデータや機能などを収めたものです。ワタシは、本体が遠隔操作しているものですが」」
「・・・・・・なるほど?」
 わたしは首を捻る。ワダツミはあいまいに笑って、奥へ手招きした。店と同じ間取りなら、倉庫だ。
 天井のレールに吊り下げられて、大量のワダツミが並んでいる。
「うわあ」
「「ワタクシどもの工場です」」
 事もなげに言うワダツミは足を止めない。床を這うコードにつまづきつまづき、ついていく。
 工場の真ん中がレールの始点になっていて、ぽっかり穴が開いていた。はしごで降りる。ワダツミの骨組みが奥から登ってきてすれ違う。上から覗いたときは底が暗くて見えなかった。どれくらい高さがあるんだろう。手がじんわり汗ばむ。つるっと滑りませんように。
 どきどきする。どきどきする。鼓動で身体まで揺れているみたいだ。
 水のぬるぬるするにおいがする。水切りせずに放っておいた流し台のにおい。ほんとうは、その水はすっぱくて、まとわりついてべたべたするんだ。
 ガラスの向こうに手のひら。わたしはそれに手を重ね合わせる。ガラスの向こうの手はわたしより大きくて――その先にウエーブがかったちゃいろい髪が――。
 ガラス越しに合わせた手のひらは同じ大きさだった。みどりいろのもやの中で眼がひかった。鼻が見えて、くちびる、顔の輪郭が浮かび上がる。
「わたし・・・・・・・・・・・・」
 水槽の中のわたしは首を傾げて、ガラスを押し去っていった。わたし。わたしだ。わたしはこの中で、同じように会ったことがある。リリーと。
「「ロッテどのは、生き返ったわけではありません。ワタシが、自殺したアンナロッテの日記を元に記憶を再現し読み込ませた、アンナロッテそっくりの」」
 護衛ユニットのひとつ。
 魔王たちが作製できるもののひとつだ。ファイターやウイッチといった人と遜色ない人型、スライムやアルラウネといったモンスター型。つくしちゃんのくまのぬいぐるみたちも、こういったもののひとつだ。
「「ワタシ、《海神》でもどうやらデータの扱いにだけ長けたもののようでして。その、データとして扱いの簡易かつ人型に近しいものとしてアルラウネを元にしました」」
 女性型であり、植物体であるから人型ユニットを形成し直すより簡単だったということだろうか。
 アルラウネ? この身体が?
 残像領域でモニターに映ったモンスターの姿を思い出す。魔王城の廊下を闊歩する、花の香りのモンスターを思い出す。
 燃え上がってのたうつ姿、切り裂かれ八つ裂きになる姿。まっくろい炭の塊も、ただの枯れた花びら茎も、わたしは踏みつけてきた。
 あれ? あれが、わたし? わたしもいつか、ああなって?
「「ロッテどの? ロッテどの! すみません。ここまで一度に伝える必要はありませんでした。ワタシ・・・・・・ワタシ・・・・・・ロッテどのが好きです。自殺してしまったアンナロッテが好きでした。でも、でも、違うのです。ワタシは好いたアンナロッテを再現しようとし、ロッテどのを生み出した。けれど同一にはできなかった。ワタシは、恐らくですが、同一でないからこそ、ロッテどのを好きなのです」」
「はあ? ちょっと待ってちょっと待って。なに? なにが言いたいの?」
 ワダツミの言うことについていけない。わたしが人間でないことはわかった。自殺したアンナロッテでないこともわかる。身体が覚えている。わたしはこの中にいた。ここで、リリーに会って、そうして、
「待って。リリーは? リリーは、死んで、ない?」
 リリーはあのとき、水槽を叩いたっきりいなくなった。リリーはわたしを受け入れなかった。彼女の死んだ親友に限りなく近づけたわたしを。
「「はい。おそらく。なにしろワタシも、数年前に別れたきりですので」」
 他になにか言いたげなワダツミがおろおろと答える。
 えっ? えっ? それならわたしは、あんなにお金にこだわる必要はなかったってこと?
 お店をするのは楽しい。わたしが蘇ったアンナロッテでないのなら、なおのこと続けたい。
 残像領域に行ったのはお金のためじゃなかった。アンナを助けたいからでもなかった。わたしにもできるって、思いたかった。
 だから、リリーを蘇らせるために稼いできたわけじゃない。きっかけはそうだったけど、もう違うし、リリーが生きているからといって変わるわけじゃない。
 だけど、なぜだか気がおさまらない。
「嘘ついたの? リリーを生き返らせるのにお金が必要だって? ねえっ?」
 ワダツミが後ずさる。ばさばさ、なにかが落ちた。数冊のノート。見覚えがある。古ぼけた、ぼろぼろのノート。最近見た。
「リリーの・・・・・・」
 拾ってめくればリリーの字が並んでいる。リリーの日記だ。わたしではない、自殺したアンナロッテの親友の日記。読んじゃいけない。一度めくっただけで、閉じた。
「なんでここに? ワダツミ、あなた、まさかリリーまで」
「「・・・・・・その通りです。ワタシは、リリーめまでもを再現するつもりでいました」」
 ロッテどのが会いたがっていたので。
 ワダツミの表情は読めない。だってロボットだから。長方形の頭に丸い眼がふたつ、長方形の口がひとつ。
 わたしはその顔を両手で掴んだ。
 これはロボットだ。初めてそう思った。こいつの思い通りのリリーで、わたしを満足させようとするつもりだった。
「どうしてしなかったの。まだ準備中だったってこと?」
「「いいえ。できませんでした。ワタシには、アンナロッテを再現したロッテどのを、アンナロッテと同一だと判定することができない。それでリリーを再現することなどできるわけがありません。そうやって生まれてくるリリーは、アンナロッテとロッテどのが求めるリリーではありませんので」」
 ワダツミの口、スピーカーから流れる声は淡々としている。このロボットは空っぽだ。ただの箱。この声の主はこの中にはいない。遠隔操作しているって言っていた。
「そう・・・・・・そうね・・・・・・。その通りだわ」
 ワダツミは、わかっている。だから好きだなんて口走った。先走って。わたしは自殺したアンナロッテに似るために生まれたのに、きっとそうではなかった。ワダツミはそれを認めて、だから、リリーは生み出さない。
「ワダツミ、あなた、どうしてわたしにこんなこと話したの? 今になって」
 わからない。ワダツミは、なにを言いたいんだろう。わたしは知れてよかったと思いたい。けれど、知らなくったって生きて、たぶんそう長く生きないうちに死んだだろう。
 ワダツミは今になってわたしにこんなことを教えて、なにをさせようって、なにを期待しているのか。
「「アンナどのに、見つけられてしまいまして。それでそのう、ロッテどのにお伝えしたいと思ったものですから」」
 アンナが。
 アンナが戦場まで迎えに来てくれたとき、わたしはただ操縦棺の中で膝を抱えて震えていた。
 《創造主》がよくわからないけれど認めてくれたことが嬉しかった。強くて勇気があるアンナより、ただ毎日生きているだけのわたしを認めてくれて、残像領域へ誘ってくれたことが。だから付いていったのに、戦場で一度トリガーを引いただけでもうなにもできなくなってしまった。アンナが来てくれた戦場だって、わたしはただ棺に揺すられて、《創造主》の声を聞いていただけだった。
 だから、アンナに会えてほっとして嬉しくて、言われるまま、わたしだけこっちに戻ってきてしまったのだ。アンナをあの戦場に置いて。
 アンナはわたしのためを思って助けに来てくれていたんだ。
「アンナを助けに行かなきゃ。ワダツミ、残像領域まで連れてって!」
「「ええ・・・・・・そんな無茶な・・・・・・。とでも言うと思いましたか! ワタクシ本体、あれから数日と経っていませんが準備中です! まだしばしお時間をいただければ必ずや安全な行き来をお約束しましょうぞ!」」
 あんまり喚くのがうるさくて、顔を手放した。放り出されたワダツミがきりっとして立ち直る。
「何日くらい?」
「「二週間あれば!」」
 実際には十六日かかった。
 その間商戦に参加するうち、世界の終わりとかいう嫌な噂をよく耳にした。わたしは噂を信じるほうではない。特に、終わりをもたらすものの討伐へ行く戦力を求めているだなんて聞くと、焼き菓子屋のわたしにできることもなくって無性にじりじりするばっかりだった。つくしちゃんは行くんだろうか。最近来ないな、と思っているうち、会いに行く時間も作れないままに出発の日が来てしまった。
「車?」
 ワダツミの工場前に置いてあった《ワダツミ》本体に、いくつかタイヤが付いていた。アンナの機体に付いていたようなレーダーが上面につんつんしている。後方になるだろう方に水槽が引っ張られるかたちで付いていた。
「「装甲を厚くしたので装甲車と言ったところでしょう。あの水槽も並大抵のことでは割れませんのでご安心ください。ああっと下にあったやつじゃありませんからね!」」
 水槽はあおい色をしている。アンナの髪の色に似ていた。水色に近い。
 ワダツミたちに促されるまま《ワダツミ》本体の中に入る。この前乗って帰って来た領域瞬間霊送箱と大体同じだ。操縦席のシートがあって、ハンドルがある。ハイドラよりレバーの数は少ない。
「「ロッテどの。出発しますが、本当によろしいですか?」」
 操縦席真ん前、一番大きなモニターが明滅する。ワダツミの大本といっても、本当に変わらない。
「・・・・・・うん、大丈夫。今度はわたしたちがアンナを迎えに行こう。ワダツミ」
「「はい。エンジン始動! シートベルトをしっかり締めて、掴まっていてください! 行きますぞ!」」
 ぶるるるるる。《ワダツミ》の箱じゅうが震える。シートに座っていてもお尻がぶるぶるとして、歯を食いしばらなければいけないほどだ。
 モニターに外の様子が映った。ブリキロボたちが並んで手を振っている。一番前で心配そうにおろおろしているのが、いつも側にいてくれたワダツミだろう。あいつは遠隔操作されているだけなのに、別れてしまうようでほんの少しだけもったいなかった気になる。もっと優しくすればよかったとか。
「「やはりロッテどのは・・・・・・あのボディがお気に・・・・・・」」
 ワダツミの声がぼわぼわと反響する。モニターの映像は掠れて荒くなり、ぼんやりと滲んだようになる。見える範囲のものが全てぼんやりとして、手指が急に太くなったり細く小さくなったりする感触がある。身体じゅうが上下左右に引っ張られているみたいで、突き落とされたり引っ張り上げられたり、どんどん狭まっていく視界で明るさだけが変わらないのがまた眼に痛い。吐きそう。吐きたい。だけど手の感覚があやふやで袋が見つからない。しまったどうしよう。このまま、また吐いてしまうのは。
 がつん! 身体が前のめりに飛ぶ。シートベルトに抑えられていても、頭をぶつけそうだった。遅れて後方に落ちる衝撃がある。
 ブオオオオオ。《ワダツミ》が震える。出発時のエンジン音よりずっと静かに低く唸る音だ。
「「ロッテどの、成こきゃああああああああああ」」
 モニターに映ったのは、大口を開けたしろいドラゴンの顔だった。真ん前だ。ハンドルがひとりでにぐるぐる回り、ペダルがぺたぺた動きレバーが忙しなくあちこちを向く。
 《ワダツミ》は急速に後ろへ下がって、どん! なにかにぶつかった。もうひとつのモニターで見るに、ハイドラだ。大きな戦車型。たくさんのレーダーと砲塔がひとつ、ミサイルを背負っている。砲塔がこっちを向いた。
 《ワダツミ》は悲鳴を上げながら左へ急発進する。後ろから一匹と一台が追ってくる。
『ただのブリキに成り下がった貴様にわたしと戦えるはずがないじゃないか。ええ? 同胞の《ワダツミ》』
 《創造主》の声だ。砲塔から放たれた一撃が、近くの地面を抉る。
「後ろの戦車型、《創造主》とアンナ!?」
 装甲車が跳ねる。『そうだよ』《創造主》の嫌みたらしい声の向こうでアンナがなにか言っているけど聞こえない。
「「ええ、そのようです。とっておきを出さなければならないようです・・・・・・こんなはずでは・・・・・・ううっ」」
 スイッチが赤く灯る。装甲車はめちゃくちゃに走りながら、なんとか両方から逃げ続けている。少し速度が落ちているらしい。ドラゴンのねちっこい追い立てが近くなっている。
「「さあ、行きなさい! ワタクシどもの力を知らしめてやるのです! ああっ食べないで! 食べないで!」」
 装甲車が速度を上げる。モニターには、出発前に見たものが戦場でわらわらしているのが映っている。ブリキロボだ。大量のブリキロボ――うすあおい色をして、走るとぷるぷる震えるのがわかる――が手足を振り回して走り回っている。ドラゴンに蹴散らかされて食べられていた。ドラゴンの足が止まる。



◆ ◆ ◆
「え、な、なにあれ?」
 装甲車に乗っているらしいロッテの声と、私の声が重なった。
『バイオ兵器だよ。悪くない使い方だが、まあ、ただの餌だろうさ』
 餌。餌って。確かに現状餌だけど。わたしたちを追いかけ回していた《オフィーリア》は、今やすっかりワダツミ型のバイオ兵器に夢中だ。《創造主》が勝手にドラゴンの頭をロックオンし、砲撃を放つ。だがすんでのところで避けられた。ひと吼えして、こっちに向かってくる。
『ふうむ。やはり難しいか』
 注意を引いたくせに、《創造主》はのんびりデータを検討するだけで逃げるのは私の役割だ。アクセルを踏み込みハンドルをきる。
 イオノスフェア要塞――《霜の巨人》を目指す道中だった。聞こえてくる通信からすると、要塞では既に戦闘が始まっている。《霜の巨人》を相手にしておののく声も漏れ聞こえていた。
 この機体は索敵機で、多少の火器は積んでいるものの護身にも不安がある。だから後方支援に徹するつもりでのろのろと進んでいたところに、《オフィーリア》が現れたのだった。
 私たちが残像領域に初めて来たとき以来の再会だったのに通信は繋がらない。《オフィーリア》は私たちをなぶるように追いかけ回した。砲塔は狙いを定めるのに時間が掛かるし、相手にわかりやすい。だがミサイルは牽制くらいにしか役に立たなかった。
 逃げるには《オフィーリア》のほうが足が早い。いたぶり殺される時間を延ばすだけ延ばしていたところに、一台の装甲車が突如出現した。私たちと《オフィーリア》の間に。
 それがワダツミだとわかったのは《創造主》だけだった。私も、よく見ればあの装甲車は、ワダツミの巣にあったものに似ているくらいはわかった。
 装甲車は尻に付けた培養装置からぽこぽことブリキロボを産み落とす。
『このままでは終わってしまうな。《霜の巨人》のデータを得られる貴重な機会だ。今のうちにそっちへ行くとしよう』
「《創造主》!」
 ロッテとワダツミを《オフィーリア》の前に置いていけって? そんなことはしたくない。
 《創造主》が牽制にミサイルを撃った。それを避ける《オフィーリア》の注意が逸れ、ワダツミ型のバイオ兵器を追いかけ食べ始める。
 だけどチャンスだ。今なら逃げられる。
『ロッテなら問題ない。ハヤテがちゃんと手綱を握ってさえいればね』
 《創造主》がささやく。ハヤテが、先生が、あのドラゴンに乗っているはずだ。それなら問題ない? 本当に? なにが?
「先生ならロッテを見逃すっていうの? 今の、あれで? 私にはそうは思えないわ」
 それに、《オフィーリア》はあんな獣ではなかった。猛々しくはあったけど常に手綱を握られていた。競走馬のように。
「適当なことを言わないで。ロッテもワダツミも絶対守る」
『いい度胸だね、アンナロッテ。できるものならわたしが提案している。できないから言っているんだ。ロッテを見捨てなさい』
「なら見てればいいでしょ。死にたくないなら協力するのか止めるのか選んで」
 《創造主》の声にはいたぶる色がある。私に選ばせたい。わざわざ私の目の前に現れたロッテを見捨てて殺すことを。
「ロッテ! ロッテ、聞こえる!? ついてきて!」
 《創造主》は答えなかった。通信機越しにロッテが頷くのがわかる。
 目的地をポイントしたデータを送る。装甲車がついてくるのを信じてアクセルを踏んだ。
 目指すのは戦場のただ中、《霜の巨人》だ。あれの目の前でなくてもいい。前線であればあるほど、《オフィーリア》は的を絞れなくなるだろう。
 今の《オフィーリア》はただの獣だ。身体をパーツにすげ替えられつつある獣。動くもの、近いものを標的にする。だから武装も持たない、ただの形だけのバイオ兵器を追いかけ回したりしている。ハヤテはたぶん乗っていない。そう思いたいだけかもしれない。でも今は、そこまで突き止められそうにない。ただ今は《オフィーリア》をやりすごして、ロッテを戦場から出さないと。
 配置と通信を無視してひた走る。《オフィーリア》の羽ばたきが聞こえる。とにかく最短コースを。敵機が飛び出してきて慌てて避けた。直後に、ワダツミとロッテが泡を食う声が聞こえて急旋回する。ブレーキを蹴りつけて、シフトレバーを引く。足まわりに嫌な金属音が響いた。というか履帯が外れそうだ。
 装甲車が慌ててブレーキをかけたせいで敵機を目前に停車している。発進するにも培養装置が重くてきつくは曲がれない。装甲車がもたついている間に敵機が狙いを定めている。その敵機の背中へ砲身を向け数発撃った。直撃するものの行動不能にまではできない。
『適当に狙うからこうなる。関節を狙いなさい関節を』
「そこまで細かく定まんないでしょ。狙撃砲じゃないのよ狙撃砲じゃ」
 装甲車がふらつく敵機を通り過ぎる。続けて追い打ちをしたが遅かった。敵機を狙った砲弾は建物を崩しただけだ。その先にもう敵機の姿はなく、装甲車の後を追って、私も方向転換する。こんな荒野に建物。少し前まではここまで町だったのか、村でもあったのかもしれない。
『アンナ。アンナ、聞こえる?』
「ロッテ? どうかした?」
 通信用モニターにロッテが映る。胸の前で両手を合せ握っている。やっぱり操縦しているのはワダツミのようだ。《創造主》にできるのだからできるだろう。とろいけど。
『アンナは、怖くないの? 戦場で戦うこと』
 ロッテはたぶん震えている。だけど画面越しにじっと私を見ている。待っている。
「怖くは、ないわね。ごめんロッテ。わかってもらえないかもしれない」
 ロッテは知らない。私が残像領域に来るまでに何人を殺したのか、それより前になにをしていたのか、どうやって生きてきたのか。
「私は、私のために人がたくさん死ぬのを見て成長してきたし、残像領域に来るまでに何人も殺してきたから。だから、それに比べたら、残像領域にいることは」
『むしろぬるま湯のようだよ。そうだろう、アンナ?』
 ロッテはきっと、ここから私を連れ出そうとしに来た。それはすごく嬉しい。それに応えなきゃいけない。応えたい。だけどするべきじゃない。
「・・・・・・そうね。ごめんロッテ。ごめんなさい。ここまで来てくれたのに」
 言葉を探して見つけられなかった。《創造主》の言葉は強すぎたけれど、他に浮かばない。
『謝らないで、アンナ。聞いて。わたし、あと三週間くらいしか生きられないんだって。それよりずっと短いかもしれない。アンナは知ってるでしょ? わたしが自殺したアンナロッテじゃないこと』
「・・・・・・うん」
『わたしは自殺したアンナロッテじゃないけど、でも、覚えてるの。彼女の日記に全部書いてあったから。ワダツミが再現した記憶だとしても覚えてる。死ぬっていうこと。わたし、眼が覚めたとき――生き返ったって聞いたとき、嬉しかった。自分で自分を殺したのに、苦しくて、逃げてしまいたくて、振り切って逃げてきたのに、戻ってこられて嬉しかったの。この気持ちを疑いもしなかった』
 わたしは、自殺したアンナロッテじゃないけど。またそう言って、ロッテは続けた。
『もう一度死ぬのは、』
「やめてよ。やめて。ロッテが、自殺したアンナロッテじゃなくて、生き返ったアンナロッテじゃないなんて、そんなことはどうでもいいことじゃない。私には、ロッテはロッテだよ」
『どうでもいい? わたしには大事なことだけどな』
 ただロッテの言う先を聞きたくなかった。口から滑り出た文句にロッテがむっとする。
『わたしは、もう一度死ぬのはもったいないって思ってる。怖くもあるけど。アンナはどう? アンナは、今ここで死んでしまっても、なんとも思わない?』
 なんとも? 鉄の味がする。かたくて、つめたくて、息が苦しくて、吐きそうで、唇の端が切れそうで、ざらついたアスファルトがつめたくて背中が痛い。
 死ぬと思った、そのときのことはずっと頭にこびりついている。毎晩だって夢に見る。《創造主》の、助け出してくれた《創造主》の、声が聞きたい。
「・・・・・・生きなきゃ、って思う。私はここまで、こうまでして生きてきたのに、って。でもね、」
 生きるために生きてきた。だけどもう違う。私は、《創造主》に協力することをあの時に選んで、同じ理想を抱いて、そのためになんでもすることを選んだはずだ。
「私には、行きたいところができたの。そこに行くためならなんでもする。命を賭けたっていい」
 ポケットの中の銃をなぞる。銃身についた歯形を。生きたくてもがいた私がここにいる。そして生きるために初めてひとを殺した私が。
 だから、怖がってなんかいられない。
「ロッテ。ロッテ、私、私前は、カエデって名前だったんだよ。覚えていてくれる?」
 なのにすごくひやひやする。今すぐなにかに、ロッテに捕まって、いや、捕まえていなければ。アンナロッテ≠ノ――《創造主》の同士になったはずなのに、そうじゃなかったときの私を覚えていてほしいだなんて。それこそ、ロッテが知らないことだ。私が、自殺したアンナロッテを知らないように。それをロッテが大事にするように。
『・・・・・・いいよ。じゃあ、アンナ。カエデは、わたしじゃないアンナロッテのことを覚えていて』
 わかった。言って頷いた。
 《霜の巨人》で大きな爆発がして――近付くにつれほとんど絶え間なく聞こえていた――他の音が消えた。カメラに積もる雪が増えずに機体の熱でずり落ちる。雪が止んだ。
 ずずん。《霜の巨人》の装甲が、霧の向こうで剥がれているらしい。巨人の足下へぼろぼろと剥がれ落ちてくる。巨人はまるで自壊するように崩れながら膝をついた。上半身がほとんどない。それが見えているのが不思議だった。《霜の巨人》はとても巨体で、観測データから大きさ、姿を推定していた。だから、ハイドラライダーたちはそれぞれが思い浮かべる、千差万別の姿の巨人と戦っていた。
 上体がない。
 通信網がざわめいている。この場にいる皆が、同じものを見ている。なにか妙だ。妙――。
 あおい。あおいぞ。空だ。霧が。霧が。
 とんと見なくなった色だ。空があおい。そういえば、こういう色だった。眼を突く鮮烈なあお。雲ひとつない。霜の巨人だったものの向こう、ずっと奥、しろい地平線に、数多の影がある。機影。
 通信網上のざわめきがいっそう大きくなる。
 スキャンをかける。これは現実だろうか。夢幻ではないのか。残像領域の霧は、こうして死人やもうなくなったものを見せるという。
 けれどどのレーダーでも、データ上霧はかけらもない。この領域を厚く覆っていた不可侵の霧。ここを象徴する霧。その霧が、すっかり晴れていた。
 《オフィーリア》の吼える声が聞こえる。ここに集まっている操縦棺じゅうを満たすざわめきすべてを貫いて、しろい、ドラゴンを模した機械は地平線上の機影へ向け真っ直ぐ飛んでいく。
 あおい空でしろい翼をきらめかせ飛ぶ姿が、大きく揺れた。風に煽られたかのように。
 ごう! 操縦棺が揺れる。風だ。地面も揺れているように感じる。
 立ち止まっていたハイドラたちは地平線を目指してばらばらと前進を始めていた。進まず引き返すものもいる。いつまでも立ったままのものもいる。
 私の機体は前に進んでいた。「待って!」ロッテが叫んでいるのが聞こえる。もしかしたら泣いているのかもしれない。
 私はアクセルを踏んでいないのに、前進し続けている。ロッテを戦場に置いておけない。ブレーキを踏みつけるが、びくともしない。ペダルが動かなかった。
「《創造主》!」
『おやおやアンナ。この先を見ないわけがないだろう。あれらが何者なのか、実に気になるじゃないか』
 操縦を《創造主》に全て支配されてしまった。操縦桿もなにもかも、目の前で勝手に動くばかりで私ではびくともしない。
「ロッテ! ロッテ! 聞こえてる!? ロッテ!」
 あれだけ騒がしかったオープンチャンネルが静まりかえっている。音量を上げると、ざあざあとノイズが聞こえるばっかりだった。ロッテの声も聞こえない。再び始まった戦闘の音だけが聞こえる。あれこれといじってみるがロッテとワダツミの装甲車に繋がらない。
『通信障害かな。ロッテもぐずじゃあない。さっさとここを離脱するだろうさ。・・・・・・ああ、おやおや』
 前進を続けるまま砲塔が旋回する。モニターのひとつがぐるりを周囲を映した。恐らく真後ろで止まる。
 装甲車がのろのろと前進している。ワダツミ型のバイオ兵器を出しながら、追いかけてきているようだ。
「ロッテ! 駄目! 戻って!」
 いくら叫んでも聞こえていない。この先になにがあるのかわからない。きっと間違いなく、《霜の巨人》よりおそろしいものだ。
 ワダツミ型のバイオ兵器はぽこぽこと数を増やして、砲撃の的にされている。
 地平線上の機影は、よくよく見ればぼろぼろだ。立っているのがおかしなくらい。残像領域が霧の中で見せる幻と、ちょうど同じように。明るい中で見ると不思議と恐ろしさはない。撃墜されたはずのハイドラが、操縦棺が明らかに潰れているハイドラが、立ち、動き、こちらに狙いを定め撃ち撃たれしていることも。
「《創造主》、先にロッテを離脱させてちょうだい。その後で好きなだけ付き合うから」
『アンナ。君はさっきわたしに言ったろう。だったら見ていろ。死にたくなければ協力するのか止めるのか選べ。だからわたしはわたしの力でもってそれを止めているだけだよ』
 獣の吼える声が聞こえる。《オフィーリア》だ。しろいドラゴンは装甲車の前に、足から着地する。尾がこちらの砲身を掠めていった。
「ロッテ!」
『おお? 面白そうだ』
 機体の前進が止まる。後退を始めた。方向転換までして、正面に《オフィーリア》の背を捉える。丸まった背の向こうに、逃げ惑うワダツミ型のバイオ兵器たちと装甲車が見える。周りのハイドラたちから集中攻撃を受けているが気にした様子はない。《オフィーリア》は獲物を追うのに必死だ。
 《オフィーリア》は、動くものを狙っているわけではない?
 ワダツミ型のバイオ兵器たちと、ワダツミとロッテが乗る装甲車だけを追いかけているようだ。逃がすつもりがない。
「《創造主》! 私に操縦させて! せめて撃ってよ! このままじゃロッテが!」
『・・・・・・エデ! カエデ!』
 ノイズの中にロッテの声が聞こえた。音量を上げる。《創造主》が操る機体は砲身を《オフィーリア》の背の中ほどに向けたまま動かない。
 装甲車はとうとうドラゴンの口に捕まって、車輪を空回りさせもがいている。
「ロッテ! 早く離脱して!」
『カエデ。カエデ、わたしたちは大丈夫。だから行って。カエデのしたいことをして』
 わたしもそうする。ロッテの声はすっきりとして芯が通っていて、すっと立ち上がるような声だった。
『カエデを連れ出して、わたしはリリーに会いに行くの。絶対に』
 装甲車は培養装置を切り離し、ドラゴンの顎から辛くも逃れた。装甲車がこっちに向かってくる。このままだと。
 どん。ぶつかった衝撃があった。きいきいと金属のこすれる音がする。ぶつかってきてなお、アクセルを踏み続けているのだ。こっちのほうが重いから、装甲車くらいでは動かない。
「ロッ・・・!」
『『エンジン始動! 行きますぞ!』』
 まさか。これごと離脱するつもりだ。そんな滅茶苦茶な。装甲車の向こうで、《オフィーリア》がこちらに向き直った。来る。視界が急にまっしろくなって――。
 離脱したのは装甲車だけだった。装甲車は影も形も無く消えている。《オフィーリア》が正面に迫っている。その、口の中へ、
『ほら』
 砲弾が吸い込まれていくのが見えた。砲身はいつの間にそんなところを狙っていたのか。
 ありったけの弾とミサイルを撃ちきって、砲塔は装填に入る。《オフィーリア》の頭と首、口は爆発にまみれて、だらりと下顎がぶら下がっている。
 他愛ない! 他愛ないぞ! 《創造主》の高笑いが棺の中を反響している。
 ごう! 風が強くなった。地面が大きくたわむのが見える。双方のハイドラたちがばたばた倒れていく。その中にひとつ、すっと立っている影がある。遠くてくろく、ほっそりとしていることしかわからない。
 毒づいた《創造主》が、ほう。一転してうっとりと息をついた、ような気がした。地面がうねる。耳がきんとした。霊送箱に乗った感覚と似ている。
 モニターに《オフィーリア》の姿を探す。ドラゴンは翼が折れていて、頭も半分がない。だがこちらを、わたしたちを見ている。来る。逃げなきゃ。ペダルを踏める。ハンドルも動かせた。なのに、モニターに映るものが変わらない。なんの衝撃もなかった。横転なんかをしたわけではないのに。
 操縦棺じゅうを見回して、ペダルを踏んで、ハンドルを動かして、それでも動かない。そうしているうち、全てのモニターが消え、点いた。文字列がさっと流れる。意味はわかるようで、でもなにが起きているのかはわからない。文字列は植物のように寄り集まって流れて、衝撃が来た。

***
『やあ。おはようアンナ』
 《創造主》の声が聞こえる。ぼんやりと見えるのは、モニターだ。文字列以外のものが映っているモニター。何度かまばたきするとはっきりする。口の中がざらざらした。
「おはよう、《創造主》。ここは?」
『一見したところ、残像領域よりは安全な世界だろうね』
 モニターは緑色で埋まっている。光が透けて見えるから、カメラに葉っぱがくっついているんだろう。
 ハッチを開ける。土のにおいがする。樹の枝が顔面を叩いた。見渡す限り草もすごいが、ジャングルと言うほどの山森ではない。むしろ空気はからっとしていた。
 ここは残像領域ではない。あの地震のような現象はやはり霊送箱がしたような、転移のようなものだったのだろうか。
 ここは残像領域ではない。ロッテがいた世界でもない。
 ロッテは無事に戻れただろうか。無事だといい。ロッテは、私を連れ出そうとした。できなかったのはきっと性能を越えていたからだ。装甲車一台分しか転移させることができなかったんだろう。ワダツミまでもが性能を越えたことをしようとしていた。
 今なら、どこへでも行ける。
 今この、操縦棺からなにも持たずに抜け出してしまえば、ああして《創造主》に振り回されることもない、おそらく比較的安全な場所へ行けるだろう。
『おや、ははは。ここにも《海神》がいるじゃないか』
 さあ、忙しくなるぞ、アンナロッテ。
 《創造主》がはしゃいだ声を上げた。モニターにはレーダーがスキャンしたデータが表示されている。
 《創造主》の声に、私は頷いている。
 荷物をまとめてハッチをロックした。携帯端末に《創造主》からのメールが表示されるのを確認する。もう少し足を伸せば人里もすぐだそうだ。
 一歩二歩、操縦棺から遠ざかる。ポケットの銃を指でなぞった。私はほんのこれだけの距離で、背が冷えてたまらない。
 振り返って見た棺は、草木に埋もれている。