引っ越しの昼

「母さん?」
 イオレが何度呼んでも母親の答えは無い。がらりとした居間には入居してきた時からあったテーブルと、身の回りのものが詰まりまるまるとしたバッグが積まれているだけ。
 居間の他には部屋が二つ。イオレの部屋と、父親の部屋。父は先に母の買った新しい家に入っているから、この一週間は母親の部屋だった。母はその部屋で荷物をまとめている筈で、もしかしたらもう終わっているのかもしれない。
「ね、終わったの?」
 部屋のドアは半ばまで開いていた。カーテンも開いているらしい。部屋には真昼の陽光が差し込んでいる。そこに、真黒い人影がある。丈の長いコート――だぼついた肩と指先しか出ない長い袖は男物だろう。左腕に腕章が付いている。白地に赤色の印。見覚えのない印章だった。
「あ、ああ。懐かしいものを見つけたものだから」
 母の手が腕章に触れる。印章をなぞる指先は微かに震えていた。
「……父さんの?」
 両親はいつの間にか復縁していたらしい。その詳細も、昔のことも、二人はイオレに話してはくれない。今自分達が直面している件に深く関わっているに違いないのに。このコートだって、腕章といい端のほつれ具合といい物騒なにおいがぷんぷんする。ぱっと見ただけで何かしらのまじないか魔術かがかかっている。不可解ではない、いつも手に触れているそれとは違う種であるだけだろう。
「そう。随分昔にいた所のもので…………まだ持っていたなんて」
 腕章を見る母の眼はなぜだかこそばゆい。イオレは頬が熱くなるのを感じて、慌てて居間に引っ込んだ。

101112