イオレ

 イオレの父親は若く見える。両親が若い頃の子どもだから、実際同年代の子の父親よりも若いだけなのかもしれない。親子に見えない、とはよく言われる言葉で、聞きなれてしまった。
 イオレはその、若く見える父親と一緒に住んでいる。
 父親が何をしているのかは知らない。そもそも仕事というものをしているのかどうかも怪しい。イオレは全寮制の学校を卒業、魔導士の弟子として二年ほど過ごした後、父親と住むために首都で魔術師として働いている。
 イオレがまじないの準備のために朝早く家を出るとき、父親は未だ眠っているか家にいない。朝食のために一旦帰宅したときも、再び家を出るときも、夜帰宅したときもそうである。
 母親のことはあまり知らない。物心ついた後に別れたから顔も声も知っているし、写真を持っている。今どこで何をしているのかは知らない。父親は知っているのかもしれない――ずっとそう思っているが、イオレは父親にそのことを聞いたことは無かった。
 父さん。ある朝、イオレが一旦帰宅したとき、パンを齧っている父親がいた。呼ぶと、父親はなれなれしく片手を挙げる。
 卵を炒りながら、イオレは母親について聞く機会を窺い、父親はパンを食べきり手持ち無沙汰に座っている。
 また女の人といたの?、言うと父親は、あ、だの、え、だの、意味も無く口ごもった。図星かもしれない。この父親は嘘が上手いがイオレには嘘をつかなかった。女といたならそうだと言うのだろうし、そうではないなら違うと言う筈なのに。隠し事をしている。イオレにはすぐわかった。しかもそれは女性関係ではないらしい。
「新しい母親だよ、なんて言ったら炭にするから」
 じろり、睨みをきかせると、父親は慌てて違うそんなことじゃないと言い繕った。
 以前女性を紹介されたとき、イオレは腸が煮えくり返って、我を忘れ大暴れした。それ以来、イオレはこの父親から離れられずにいる。最低だが、未だ父親として好きなようだから。
 前に、お前には母親が必要だろう、と言われたことがある。母親を全く知らないわけではないし、学校は全寮制で周りも家族と接していなかったから、イオレはそう思ったことが無い。……全く無いわけではないにしろ。
 父さんは未だ、そんなふうに思っているのかもしれない。
 そう思うと、哀しいような嬉しいような、ない交ぜになってよく分からない気持ちが胸の中で渦を巻いた。ちゃんと職にだって就いている。父親と違ってまともに稼いで自立しているつもりだ。それなのに父親に未だ母親が必要だと思われるのは、心配されているのか、子ども扱いされているのか。どちらかに決められたら跳ね除ける事ができるのに。
 結局どちらに決めることも出来ずに、イオレは朝食を口に運ぶ。本当はどちらかではなく両方であってほしい。こんなふうに思ってしまうのは、未だ子どもだから、だろうか。
「……イオレ、」
 イオレは咄嗟に息を呑んだ。父親にイオレと呼ばれたことは無い。わけあってイオレというのは本当の名前ではないからだ。
 なに。返す声が思わず硬くなる。
「昇進の話がある」
「…父さんの?」
 父親はイオレと眼が合うと、するり、眼を逸らす。落ちつきなく泳ぐ眼は机の上とイオレの上半身までを行ったりきたりしている。喜ぶべき話しをする態度には見えなかった。そもそも父親の仕事の話など今まで一度だって出た事はない。
「違う。イオレ、の」
 本当の名前を言いかけて、父親は口ごもった。その泳ぎまわる眼は一体、空の皿しかない机の上から何を見つけ出そうとしているのか。イオレはリビング唯一の机を消し炭にしてやりたくなったが、ひとまず抑えた。
 そんなことよりも、
「どうして?父さんから聞く話じゃないと思うけど」
「魔導士になれ。大抜擢だろう?」
 この人は本当の事は言わない。イオレは直感した。
「私にはなれないって知ってるでしょ?王様の部下になるんだもの、すごく良い生まれじゃないと」
 それも学校を卒業して三年も経っていない、魔術師としてまだ駆け出しである生まれが不確かな小娘が。王宮に出入りの許される魔導士になどなれるわけがない。
「素性は気にしなくていい。イオレは腕利きの騎士の娘だから」
「何の話、それは」
 父親が――この人が、母親を大して想っていないだろうとは思っていた。大事だったなら一人だけ置いてこんな世界になんて来なかった筈だ。大事だったなら母親に瓜二つの娘を遠ざけたりしない筈だ。大事だったなら、こんな、こんな事は言えない。
「私の母親は母さんだけ!あの、写真の人だけよ!たとえ紙の上でいろいろ細工したとしても」
 この人は唯一残っている母親の名残、戸籍上のそれを詐称すると言う。騎士の娘。最高の保険を偽証すると。
「そうだ。だから、颯の、母さんの姓に変える」
 イオレは父の姓を名乗っている。母を置いて来てからずっと、父がそうしてきたから。それがなぜなのか、イオレは知らない。もしも母親が自分達を探そうとしたときに見つけられるように――もしもそうだったとしたら良いとは思っていたけれど。
「母さんの戸籍でも捏造するってわけ」
 そもそも母親の方の姓はこの辺りでは目立ち過ぎる。
「捏造はする。どうやって出世するつもりなのかは知らないが」
 出世?イオレの頭の中に疑問符がいくつか出現する。それはまるで、本人が来るかのようだ。
 話が終わったつもりなのか、父親は気だるげに自室へ向かう。
「母さんが来るの?」
 母親がこの名前で見つけてくれたのかもしれない。そして、あの常軌を逸した家から自由になって、父と母とで暮らせるのだろうか。
「……そうだよ。戸籍上も親子でありたいだろう」
 あいつだって。小さく付け足した言葉はイオレには正確には聞き取れなかった。

***

 母親は、イオレの平手に平然としていた。
 言いたい事は山のようにある。有り過ぎて、喉につかえてしまった。
 母親の脇にいた、新しく『父親』になる男の方が動揺している。それにもひどく腹が立った。
「……これで、許すから。そっちの人は早く行って。消し炭じゃ済ませられない」
 この男は気に障ったが、憎らしくは思わなかった。父親だってやっていた事だから?今はどうでもいい。母親と、嘘は言わなかった父親に腹が立つ。その分を、この男に当たり散らしてしまいそうだった。


fin.
101010
---------
長編主要人物の元恋人と娘。