竜と世界と私

プロローグ-一

 長雨明けのあおい空に白い洗濯物が映える。よし。アレイシアは一息ついて、ずらりと並んだ大量の洗濯物を眺めた。洗濯物越しの空に薄っぺらの白い“皿”が見える。珍しい。空に浮かぶ“皿”型の大地は、この世界中の空を絶えずさ迷っている。ここまで来たのを見たことがなかった。少なくともこの五年の間は。
“皿”にはこの世界の創造主がいて、その子孫が“皿”とこの世界を守っているのだそうだ。
 アレイシアは信じていない。だが大多数は信じている。だからあの”皿”は天界と呼ばれて、僅かながら地上にいる”皿”の元住人は天界人などと呼ばれているのだ。
 そういえば、上司の”魔女”とその自称助手の天界人の男は起きてきただろうか。
 森の深い孤島に唯一の建物である王宮魔導師の事務所は、島のほぼ中央、池のようなちっぽけな湖のほとりにある。この数日雨が続いていたため、干した洗濯物は三人分でも事務所の前をすっかり占拠した。毎日荷物を届けに来る竜が着陸できるかどうか、ぎりぎりのスペースしか空いていないが、あの大人しい竜ならきっと大丈夫だろう。
 次は掃除、食事の準備、それから昨日出た大量の使用済み器具の洗浄。炊事洗濯は助手の仕事に含まれないが、彼女達の生活能力があまりにも低くて見ていられない。サンドイッチしかろくに作れないくせになぜ孤島に住もうなどと考えたのか。不老不死の”魔女”と天界人なら飲み食いせずとも生きていけそうではある。
 掃除を手早く終わらせ、食事の用意をしていた頃、上司である魔導師が起きてきた。黒髪のショートカットにあおい眼。可愛らしい顔と小柄な身体は十代の少女そのものだが、この十数年風貌の変わらない彼女をその才能への嫉妬も含めて”魔女”と呼ぶ者も少なくない。
「おはよう、レイ」
 魔導師――ピアだけはアレイシアを愛称で呼ぶ。未だ聞く度にこそばゆく、でも嫌だとは思わなかった。
「おはよう。いつもより早いじゃない?」
「ちょっと頭痛がして寝ていられなかったの。あの忌々しい”皿”がこの上に来てる、っていう悪夢を見ちゃって」
 ピアは階段で立ち止まりいかにも痛そうに頭を抑える。天界人の男と同居しているくせに天界を目の敵にする彼女の複雑な事情を、アレイシアは知らない。知らなくても仕事はできる。
「今日は忙しいわよ。晴れたから荷物がまとめて――」
 彼女にカップを渡しているとき、非常に近くで甲高い獣の鳴き声が聞こえた。それは呻り声に変わってどんどん大きくなる。まるで近づいてきているようだ。二人で一つのカップを手にしたまま顔を見合わせ、周りを見て、上を見た。鳴き声は何か大きな獣――例えば毎日郵便物を運んでくる竜――のもので、空から――例えば墜落して――近づいてきている。
「精製液!」
「書類!」
 二人でカップを押しつけ合った結果、床に落とし、その音ではっとした。
 ピアは彼女が昨日一日かけて複雑で煩雑な処理をした魔法薬未満の液体の元へ飛んでいく。アレイシアは重要書類がぱんぱんに詰まった引き出しを引っ張り出した。積み上げて持てるだけ持ち、地下室に飛び込む。轟音と振動と舞い上がる埃、天井と二階への階段が崩れてくる中で、ピアに諦めろと叫んだ。自分でも轟音の中でその声は聞こえなかったが、二階で寝ていた男の間抜けな悲鳴はやけに耳に残った。
 音が止むのを待って、地下室から這い出た。埃が朝日に照らされきらきら輝いている。部屋の中央を遮るしろい獣の長い首がしろく眩い。竜の首だ。胴体にくくりつけられていた荷物が瓦礫の上に散乱していた。
 竜の首の向こう側から、アレイシアと同じ金色の髪が動いているのが見えた。もう一人の同居人の東 天鈴(あずま てんりん)。陽光できらめく細い金髪、”皿”と同じほどしろい肌、絵に描いた様に整い過ぎた顔立ちと、細く長い手足。天界人の、人形じみた典型的な特徴を全てもっている。丈夫だと知ってはいたが驚異的だ。ピアは既に瓦礫をひっくり返して回っていた。ずぶ濡れなのは守りに行ったはずの精製液を被ってしまったからだろう。
「あの”皿”のせいね! いつかたたき割ってやる!」
 ピアはいつになく憤慨していた。”皿”のせいで頭痛がするというのは本当かもしれない。
「ね、ちょっと。この子はどうなの? どうにかできる? 東は?」
 耳がおかしくなって音が遠い。できるだけ大きな声を出したつもりが、埃っぽいく喉が引きつって声を出し辛い。
「大丈夫。こんなんじゃ死なない」
 東が声を張り上げる。ピアはお構いなしに憤慨し続けていたが、急に咳き込んでよろけた。壁に手をついてしゃがみ込む。東が血相を変えて駆け寄った。それに続こうとすると、彼はこちらを見て首を振る。いつもと同じ。任せておけ、か、近づくな。ピアは不老不死の噂の割に病弱で、こうして倒れることがある。その度に世話をするのは東だ。
 こっちはこっちで現状を把握すべきだろう。二階ごと落ちてきたせいで一階は見る影も無い。この数日処理した大量の書類――今日返送する予定だった――は分厚い大量の瓦礫の下で、発掘できそうもない。片付けるよりも引っ越した方が早そうだ。そうなったらここは燃やすことになる。引っ越しの手間を考えると目眩がした。地下室にあるピアの膨大な蔵書と魔法薬をどうやって運びだそう?
 途方に暮れ始めたところに、一羽の鳩が瓦礫の上へ降り立った。足首に小さな筒を持った鳩はこちらを見て首を傾げる。