竜と世界と私

二章-四

「魔術は命令式の集合によって成り立っています。ある物質を変化させようとするときに、物質に直接働きかける粒子に対してその命令を行う。命令を受けた粒子は命令の通りに物質に働きかけ、物質が変化を起こす」
 翼にはアレイシアの説明がよく理解できなかった。隣で同じく聞いていた暮葉も頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいた。
 うーん、アレイシアが唸る。本当はイオレに講義を受けるつもりだったのだが、仕事の都合で急にしばらく来られなくなったと言うのだ。そのため怪我の治りかけたアレイシアが魔術について教えてくれることになった。彼女はこんなことになるとは思ってもみなかったわけだから、話がうまく運ぶわけもない。
「ええと、そうね、私たちの眼には見えないけど、すごく小さな粒子が空気中にいるんです。これは魔術粒子というのだけど、この粒子は人間の意思や命令に従うことができます」
 魔術という割にはなんだか科学っぽい仕組みだ。通っていたうちに入らない高校の授業で聞いたような話に似ている。暮葉はわかっているのかいないのか、曖昧に頷いた。
 アレイシアは心配そうに話を続ける。
「例えばこの粒子に、ええと例えば――この、コップを持ち上げるように命令すると、よいしょ、と持ち上げてくれます」
 整頓された机の上にいたコップを一度手に取り、再び置く。アレイシアの「よいしょ」に合わせてコップが数センチ浮いた。
「すごーい!」
 暮葉が手を叩いて声を上げる。コップをまじまじと見て、机とコップの間に手を入れたりコップの上に手を行き来させたりするが、仕掛けはなにもない。
「手品みたい!」
「今は持ち上げる、という単純な命令だけど、火をおこす、とか、ものを壊すといったことは命令がかなり複雑になります」
「え? どうしてですか?」
 アレイシアはその反応に気をよくしたらしい。ふふふ、笑って、
「ものが燃えるのはどんな原理だか知っていますよね。それを全て魔術粒子に命令して実行しなければいけないからです。実は持ち上げる、という命令にも、持ち上げるためのエネルギーをどう生み出すのか、といった細かな命令が必要になってきます」
 つまり粒子に酸素供給まで命令しなければならないということだろうか。
「じゃあ、魔術を使う人は皆そういう原理を覚えているってことですか」
「そうなるわね」
 翼は暮葉と顔を見合わせる。イオレはまだ十五かそこらなのに、世の中のあらゆる現象の原理を知り尽くしているのか。
「そうはいっても、そうね、例えば魔術で料理をしようとしたら、材料を切ったり洗ったり、火を点けて炒めたり・・・・・・膨大な命令が必要になることは分かってもらえたと思うけど」
 なおも不安げなアレイシアに、それ位ならと暮葉が頷いてみせる。
「だから発火なんかはあらかじめ頭の外に作っておいたりするの。大規模な魔術を使うときは命令を分割して最後にまとめるのが普通ね」
「頭の外?」
「そう。ブロックごとにわけて、導火線で繋げる。最後に命令となる火を点けて爆発させる。つまり発動させる」
 急に魔術っぽくなってきた。その落差に暮葉はぽかんとしている。翼は早々に話に付いていくのを諦めることにした。人生諦めが肝心だ。自分に勉強が向いていないことはとっくに分かっている。
「魔術の難しいところは命令よ。魔術粒子に命令ができるかどうかは天性によるところが大きくて、感覚を掴むのはかなり難しいとされているわ」
 ええー。暮葉がげんなりした声を出す。
「だから、翼君が魔術を習得するのはかなり難しい。でも、その点暮葉さんは無自覚だけど召喚ができるから、努力次第で習得が可能よ」
 暮葉を生暖かく見守ることにしたのを察知したらしいアレイシアが、こちらにたしなめるような眼を向ける。
「召喚こそ特別な才能というか適正がないとできないの。逆に言えば、適正があれば知識が無くても感覚で召喚が出来る。暮葉さんは今この状態ね。だからまず、感覚的にしていることの仕組みを知るところから始めましょう」
 うちにある一番易しい本よ、と一冊の本が暮葉に渡されるものの、五センチの厚みは暮葉には十分厚すぎる。きっと捨てられた子犬みたいな眼をしているに違いない。彼女の後ろ姿だけでわかる。肩を落として見上げられたら、少なくとも翼はお手上げだ。
 アレイシアはそれを見て可哀想になったのか、大きく息を吐く。
 じゃあこれでいいから。言って出てきたのは一冊のよれたノートだった。
「伝説のノート?」
 ピアの茶化した声が物陰から飛んでくるが、アレイシアは鉄壁の笑顔でそれを黙殺した。
 助手が動けることが分かった途端、雑用どころか仕事らしいことをしなくなったピアとアレイシアの間は朝からずっと冷戦状態だった。暮葉はそれを分かっていなくて、無邪気に感嘆の声をあげる。
「魔術学校で私の記録を抜いたイオレのノートよ。異人さんにも分かりやすくまとめてあると思う」
 アレイシアは学校で天才扱い。ピアが言っていた。異人でありながらそれを抜いたイオレのノートは確かに伝説だろう。
 そんな中、事務所に颯が顔を出した。顔を見るのは一週間ぶりだろうか。連絡も指示も寄越さなくなったのは兄に会ってからだ。
 暮葉がここぞとばかりにいそいそと本を置いて茶を淹れに行く。
「もう起き上がって平気なのか」
「ええ、まあ。まだあちこち動き回ったりはできないんですけど」
「そうか。悪かったな」
 もう、いいんです。アレイシアは念を押すように颯に手のひらを見せる。まるで何度もしつこく謝られたみたいだ。
「あれ、最近見なかったけど」
「たまたま会わなかっただけだろう」
 避けていたのを隠そうともしない。その態度に不信感が募る。
 ふうん。これ見よがしに苛立ちを込めて言うと、アレイシアが慌てて取り繕った。
「朱伊先生を避けて朝早くにいらしてたの。結局先生には毎回会う羽目になっていたけど」
「どうして」
「朱伊がアレイシアの傷を診に来ていたんだ」
 どうせそんなところだろうが、颯が朱伊を避ける意味が分からない。もしも、仮に、兄とよりを戻していても、平然と会うはずだ。避けるなんてそんな怪しまれるような行動はとらない。
 どうもー。間延びした男の声がぴりぴりした事務所に間抜けに響く。朱伊だ。妹を眼で探しながら入ってくるのを、アレイシアは助かったと言わんばかりに迎え入れる。颯が殺意のこもった眼で睨んでくるのを無視して、翼は朱伊に手を振った。普段なら絶対にしないが、やむを得ない。
 朱伊は取り繕っているが、一瞬で不機嫌になったみたいだった。こっちは良い気分だ。
「態度まで似てきたな。胸くそ悪い」
 イオレの気持ちが分かる。確かに、兄と同じ色で良かったと思ったのは初めてだ。
 颯は素知らぬ顔で距離をとる。大量の紙束越しにピアへ何か渡しているみたいだった。アレイシアがそれに引き寄せられていく。
「颯があいつと会ったの知ってる?」
「もう関係ない」
 爆弾を落としたつもりだったのに、拍子抜けした。不機嫌に輪がかかっただけだ。
「関係ない?」
「どこに行ってもあおい髪を探してる。どこでも、いつでも。俺でもうんざりする」
 妹が呼び止めるのも聞こえていない様子で今度は表側のドアから出て行ってしまう。
 信じられない。朱伊が、颯に愛想を尽かした。朱伊が。あの朱伊が。そもそも颯だってこいつに惚れ込んでいた。やめろと言ったのにここまで連れてきておいて別れるとは。身勝手にも程がある。
 当の颯を見れば、いつの間にかカップを手に椅子を引き寄せている。勝手知ったるそぶりと、どこか晴れがましく見える顔に呆れた。まさかここに入り浸っているせいでアパートの手配に手間取っているのではあるまいか。
「こっちはどうだ」
 そっちは。反抗心に火が点いて、つい突っかかってしまう。やっと茶を淹れ終わった暮葉がびっくりして硬直した。颯は何事も無かったように、
「てんやわんやだ。王宮の警護ですら人数がぎりぎりなのに復旧工事の警備までやらされている」
 ため息をついてカップに口を付けた。確かに少しやつれた。顔色もよくない。仕事が忙しいのは嘘ではなさそうだ。
「それより、竜のことに集中してくれ。ピアと話はついているから、他のことは気にするな」
 数日後、事務所からの荷物を届けた道すがら王宮でイオレとばったり出くわした。
 詮索するなと釘を刺されると逆に気になって仕方が無い。最近颯を王宮で見るか尋ねる。
「母さん、こき使われてるみたい。新参者だし、王宮魔導師の母親だから仕方ないかもしれないけど」
 紅い上着を羽織ったイオレがやけに立派に見える。この幼い頭の中にどれだけの知識が詰まっているのだろう。
「夜勤が連続してるとか?」
「それはないと思うなあ。私ここ数日泊まり込んでるけど、夜は見かけなかったよ。どうして?」
 また急に怪しく思えてしまう。颯とはあれ以来会っていない。脳裏に兄の顔がちらつく。あの二人は何を取引したのか。
「最近事務所に来ないからさ、忙しいのかと思って」
「あれ、そっちに行ってるんじゃないの? 何日も寝てないみたいな顔してるからてっきりそっちで何かやってるんだと思ってた」
 あやしい。二人の意見は合致した。