竜と世界と私

二章-三

 兄への頼み事は保留にした。無理難題を突きつけてやりたいが、すぐに思いつかなかったからだ。
 翼がピア・スノウの事務所に着いたのは夕方にさしかかった時間だった。まだ外は明るいが、じきに西日になってすぐ日が暮れてしまうだろう。。
 一階には一番大きくて一番ものが積み重なっている机にピアがいる以外人影はない。灯りが点いているのもそこだけで、室内は薄暗い。
 おかえり。ピアの声が投げてよこされる。言わなければならないから言った、そんな感じだ。ピア自身は物陰に隠れていて見えない。
「仕事の話は明日でいいわよ」
 今は話しかけるな。言外にそんな意味を感じて、翼はすごすご階段を上った。実は仕事よりも暮葉の様子が気になっているのも確かだ。朱伊に頼んで――というか朱伊に邪魔者扱いされて朝出てしまったから、暮葉がどうしているのか知らない。朱伊がついているのだから大丈夫だとはいえ、心細い思いをしているはずだ。
 部屋に朱伊の姿はなかった。その代わりに青髪の少女が暮葉と笑い合っている。
おかえりなさい。律儀に会釈するイオレは昨日の紅い上着を着ておらず、長い青髪をポニーテールにしている。昨日の印象とは違い活動的に見え、おそらくまだ十五、六のはずなのに二十歳をつい最近超えたばかりの暮葉よりずっと落ち着いた空気を纏っていた。
「おかえり。どこ行ってたの?」
「手続きとかいろいろ。ここの、先生が面倒を見てくれて」
 イオレの名前を言いそうになって、誤魔化す。翼は彼女が生まれたときから知っているから、どうもこの名前で呼ぶのに慣れない。小さいころ呼んでいた呼び名がぽろりと出てきそうだった。
 暮葉の顔色は今朝とは比べものにならないくらい良い。やはり朱伊に見せると回復の早さが違う。無意識に伸ばした手をイオレが見ているのに気がついて、行き先に迷って結局暮葉の頭頂部に行き着いた。ぐりぐり、押しつけるように強めに頭を撫でるのはこの手がどこかまずいところに行かないようにするためだ。
「いたいいたいいたい縮む!」
 暮葉は半ば本気の声を出す。彼女はもうちょっとくらい縮んだらそれはそれで可愛いと思う。手のひらに感じる髪の感覚が昨日の状態を思い出させるが、じんわり伝わってくる温かさは昨日にはなかったものだ。回復している。それが嬉しくて、もう一方の手も動き出しそうだ。
「暮葉さん、ずいぶん良くなったでしょ。お兄さんが心配して部屋から出してくれないみたいだけど」
 そう! そうなの! イオレの言葉を暮葉が全力で支持する。どさくさに紛れて頭を撫でていていた手を振り払われてしまった。
「あの人、私のこと苦手みたい。私が来たらどこかに行っちゃった」
 ねー。暮葉が相づちを打ち、二人はくすくす笑い合う。イオレは髪色こそ違っても、顔立ちは母親そっくりだ。細部に父親の名残がなくはないものの、颯を愛してやまない朱伊にしては意外な事実だった。
「イオレちゃん、颯さんにそっくりなのにね」
 暮葉にはイオレで通しているのか。なんとなく恋人に嘘をつくみたいに思えてしまって、後ろめたい。
「そうですか? もしかしたら父を思い出すのかもしれないですね」
 イオレは笑顔を愛想笑いに差し替えたみたいだった。
 それからピアがイオレを買い出しに呼びに来るまで、三人で他愛の無い話をして過ごした。暮葉は颯に苦手意識を持っているが娘のイオレにはそんなこともないみたいだったし、イオレも兄妹同然に育った翼に対するのと同じ位親しげにしようと努めているみたいだった。ただ、朱伊に対してなのか、母親に対してなのか、苦手意識のようなものを持っているらしいことが気になった。
 翌日、仕事の話をすると入っていたピアはそれをイオレに丸投げした。イオレはそれをいつものことだと言い、翼とイオレはピアの取引先を巡った。その道すがら、昨日気にかかっていたことを聞いてみる。
「朱伊って人が嫌いなだけ。暮葉さんはお兄さん好きみたいだし、態度に出すのはどうかと思って」
 あっけらかんとした口ぶりのわりに表情は歪んでいる。
「あっちも私を嫌ってるみたいだからいいけど。父さんと同じ色で良かったって思ったの初めて」
 青い髪は翼と兄の一族特有のものだ。両親のどちらかが一族の者だと必ず青い髪になる。確かに、他の男の色をした颯など朱伊には見たくも無いものだろう。イオレの口ぶりからすると、嫌いな人間を避けられる理由が父親にあるのも同じ位嫌らしい。
「イオレもあいつが嫌いなんだ。父親なのに」
「そりゃあね。新しい母親だなんて女の人をとっかえひっかえして。さいってい」
 想像したくないのにできてしまった。十代の頃からそうだったのだから、中年になっても変わらないようだ。興味は全くないが、姪っ子がそれで嫌な思いをしているのだから気にはなる。
「まあでも最近は決まった人がいるみたいだけど。暮葉さんにちょっと似てる。天真爛漫で可愛らしい人」
 イオレはうつむきかげんにぽつり、ぽつり言う。
「でも酷い嘘つき」
 強い口調で吐き捨てた。それがどんな意味なのか、聞こうとする前に、イオレは表情をすげ替えて翼を見上げる。この子はいつの間にこんなことが出来るようになったんだろう。
「レイさんのこと、誤解しないでほしいの」
 話が飛んだ。イオレとしては不自然でも話題を逸らしたいのだろう。心配ではあるものの、翼は話を合わせた。
「あんな事ができるなら何か仕掛けようだなんて考えなかったよ」
 颯がアレイシアに刃を向けたのは翼が仕掛けようとしていたのを止めるためだ。そしてそれに、アレイシアは応戦したに過ぎない。あそこで暮葉を狙うあたり、容赦の無い人間だろうとは思っていた。颯はそれを知っていたから止めに入ったのだ。また自分の不甲斐なさを思い知らされる。
「ああいう状況だったからであって、普段はあんな人じゃないから」
 イオレがやけに必死に弁明するからぴんときた。
「尊敬してるんだな」
「そそそそ尊敬だなんてレイさんは先生のお助手さんで私が勝手に兄弟弟子みたいに思ってるだけで」
 顔を真っ赤にして矢継ぎ早に言うものの、結論は変わらない。アレイシアはイオレにとって尊敬に値する人なのだ。
「そっか。じゃああそんな人の下で働けるなんて僕はラッキーだな」
 ぐりぐり、青い頭をなで回す。イオレがむくれるのだけは年相応で、微笑ましかった。