竜と世界と私

二章-二

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 翼がこちらの世界に来たときの第一印象はなんとも言えない気持ち悪さだった。魔法という便利な技術がありながら、全く別の世界だという衝撃や目新しさを感じないのだ。西欧風な世界でありながら、どこか日本の臭いめいたものを肌で感じる。その違和感が、生暖かい風のように肌を舐める感覚があって、気持ちが悪いのだった。
 そんな気持ち悪さを、暮葉が感じているのかは分からなかった。というのも、この世界に入ってから暮葉は体調があまり良くなく、今まで使わずに済んでいた薬を次から次へと使わざるを得なかった程だった。だから暮葉もこのなんとも形容しがたい違和感を感じていても口には出せなかっただろう。感じていたとして、彼女がそれを説明できるかはまた別の問題だったが。
 朱伊との待ち合わせ場所だった王宮前の広場からアレイシアに事務所まで連れてこられた翌日、暮葉は目を覚ましたものの朱伊が異常に心配して、しばらくの間の彼女の安静が決定した。事務所の裏にあるという朱伊の診療所への移動はピア・スノウに却下され、二階の一室に滞在することになった。颯がする筈だった翼と暮葉のアパートの手配が遅れていたため、助かったといえば助かった。彼女の兄と同居するなんて死んでも嫌だ。
 異人の居住申請は通常かなり困難らしい。颯にその難しさを吹き込まれていたが、紅い上着を着たピア・スノウを前にして、行く先行く先の担当者が顔を引きつらせて、あるいは強ばらせて手続きをしていくとわずか半日で済んでしまった。ピア・スノウの話す内容を聞くと、脅迫と恐喝と権益をちらつかせており、議場内を行ったり来たりするさなか人混みが自然と割れていく様子といい、かなり怖い。
「彼が今後うちの連絡員をするから。覚えておいて」
 行く先々でそう紹介されるものの、翼本人は全くその話を聞いていなかった。そういうことだから、と言うつもりなのか説明もない。
「あの、連絡員というのは」
「そのままの意味よ。伝言とか書類とか、うちと取引先を行ったり来たりするの」
 今朝の、「じゃあ行こうか」以来のこちらに向けた言葉だったが、聞けば返してくれるらしい。意外だった。
「それはかなり重要な仕事なんじゃないですか?」
 そういえばこの世界には電話やパソコンといったものがない。連絡を取り合うのに人の脚を使うしかないというのは、魔法があるのに非効率だ。しかも昨日会ったばかりの他人に任せられる仕事ではないように思える。連絡手段がそれしかないのだから、内容は重要なものも含まれる筈だ。信頼がなければ任せられない。
「あなたの彼女をどうするも私次第なのよ。下手なことできないでしょ?」
「そういうことですか」
 暮葉は人質でもあるわけだ。ひとまず大人しく言うことを聞いておいて、様子をうかがうことにする。
「環のお父さんはどんな人なの? お兄さんなんでしょう」
 環はイオレの偽名だ。環と別れるときに颯達が決めた。イオレも偽名だし、颯達は長い本名より愛称で呼ぶから、彼女にはいくつもの呼び名がある。
「最低のやつです」
 答えが反射的に口をついて出る。翼は幼い頃から兄が嫌いだった。これからも変わらない。理由は挙げればきりがなく、実物もいないのに奴の話をするのは嫌だ。考えたくも無い。
「そんなことより、手続きはこれで終わりですか」
 まあ、そうね。ピアは歯切れの悪い返事をする。考えないようにしていたのに、奴のことを思い出してしまった。会う前からむかつくなんて腹が立つ。
「手続き、ありがとうございました。用事があるのでこれで」
 深めに頭を下げて上げると、にんまり、笑ったピアの顔がある。
「この借りは颯につけとくわ。用事ってなに?」
 笑顔の裏にさっきの脅迫がちらついている。知られて構わない内容だが、ピアを通じて颯に知れるのが怖い。
「心配しなくても颯には黙っておいてあげる」
 なんですぐにばれたのか。顔に出していない自信があるのに。
「兄を通して仕事を探しに」
 かなり誤魔化したためピアの眼が怖い。きっとすぐにばれてしまう。軍の異人部隊に加えてもらえるよう兄のコネを使いに行くのだ。颯とは違った網を持てるはずだし、なにより兄の動向がいち早く分かる。
「うちの連絡員だけじゃあ不満だっていうのね」
「そんな話になるとは思わなかったので。すみません」
「うちは仕事をこなしてくれれば何してたっていいのよ。その最低のお兄さんの話、また聞かせて」
 ピアは能面のような笑顔を貼り付けて、翼の腕を叩いた。


「なんだ、入れ違いか」
 十年以上ぶりに会った兄は上機嫌で新しい煙草を咥えた。中年にさしかかっているからか、記憶の中よりもずっと喰えないやつになっているみたいだ。
「隠すのが面倒だから言っとく。さっき颯が来てた」
 それで機嫌がいいのか。こちらに来ても会わないことにしたのはこいつが言い出したくせに、それを自身の都合で破った颯をいびるのはさぞ楽しかっただろう。
「なんで」
「それから、お前の就職は無くなった。楽しみにしてたんだけどなあ、仕方ない」
 言葉とは逆の表情で咥えた煙草を上下する。あの煙草は颯の好きな日本製のものだ。わざわざ手土産に持ってきたものを、兄は奪い取って戦利品にしたのだろう。しかもこいつは煙草を持ってきたのが翼だと分かっていて見せびらかしているのだ。頭に血が昇るが、翼は態度に出すまいと必死に止めた。兄にいいように弄ばれるのは我慢ならない。
「理由は言えないぞ。口止めされてる。それが条件だから」
 条件。こいつと颯は取引をしたのか。しかもその取引に、兄のカードとして自身の就職が使われていたとみて間違いない。助ようとして足を引っ張るだなんて。
「そんな顔で睨むな。感動的な兄弟の再会だ」
 感動的。翼は軽蔑をめいっぱい含めて吐き捨てた。兄が娘を連れて颯を置き去りに世界を逃亡したことを理解できたのは最近のことだ。それでも置き去りにされた颯を間近で見てきて抱いた兄に対する嫌悪や憎悪や恨み辛みなどが消えたわけではない。
「まあ颯がお前に対して過保護すぎるのは同情する。僕だってイオレに同じことをするから」
 まったくどうでもいい。こいつの同情なんか一円の価値もない上に欲しくも無い。
「可愛い弟のために、ひと肌脱いでやる。ひとつだけ頼みをきく。部隊の参加はだめだぞ。颯にも言うな」
 意外な申し出に、かなり驚いた。兄はそれを見てやけに満足げに煙草に火を点ける。