竜と世界と私

二章-六

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『M1より各機。釣りの時間だ。引きを見逃すな』
 耳に仕込んだ小型無線機からメイズの偉ぶった声が流れてくる。次いで、隊員の「了解」がばらばらと続いた。颯も適当に応えておく。
 ”釣り”を初めて三日目。間に夜勤が入ったため連日行ったわけではないが、徹夜は四日目だ。眠気と疲労感で些細なことで非常にイライラするようになってきている。例えばこの、無線機で垂れ流される無駄話とか。敵も無線機を使っているのだから、盗聴を警戒しないのか。いやそもそも作戦中に、あまりにも下らない。あの飲み屋の女がどうだの、次の賭けはどれにするだの。今夜は賭けの話題で盛り上がっている。あまりの下世話さにメイズが叱りとばしたほどだ。
 異人部隊の隊員は皆、颯達の追っ手に家族恋人友人知人を奪われたのだという。連中が手段を選ばないことは颯も知りすぎるほど知っていた。部隊の者たちは、連中が颯達を追う過程で、追う手段のために犠牲になった者達のために戦っている。
 それを知って、颯は”釣り”を提案した。娘の父親にして翼の兄であるあの男でさえ部隊の標的に追われていることは伏せていたが、颯はそれを明かした。娘を守るために伏せていたことは事実だが、追われている理由を明かしていないことも合わさって、彼は"釣り"に参加していない。
 それはそれで好都合だった。お互い会わないことにしていたのは互いに新しい相手がいたことも理由のひとつで、彼の恋人が同じ部隊内にいて、颯の知り合いでもあったからやりづらいことこの上ない。今作戦は一個中隊規模の異人部隊の中でこのために編成した二個小隊によって行われている。その編成の中に「彼女」が入っているのは故意なのか偶然なのか。
『M9よりM1へ。餌箱が発見された。指示を請う』
 聞き慣れた筈の部下の声なのに、聞いたことのないほど緊張した声だ。無線機の有効範囲の関係上、別チームとは間に中継役をとっている。バックアップチームの仕事だ。この子はこんな声が出せたのか、と少しもの悲しくなる。あの男の女だと隠し続けてきて、人をスパイしていたのだから、この位当たり前だ。しかし、颯は唯一自分で選んだと思っていた部下を――カレンを信頼していたし可愛がっていた。裏切られたという思いはある。
 颯が感傷に浸っている間に無線はざわついていた。”餌箱”はピア・スノウの事務所を意味する。颯の仲間が泊まっているからだ。
「そっちは囮だ。娘がいる」
 ばれるのが早すぎる。やはりあの二人が振り切りそこなっていた。安全を確保するために最短ルートを使わせたから仕方がないとはいえ、あいつらの執拗さがまるで変わっていないことに焦りを覚える。颯は自身をせせら笑った。この世界に来て五年、まさかあいつらに追われない生活に慣れていたとは。
『Mより各員。F、M、Kナンバーは餌箱へ。M9、到着まで足止めしろ』
 無線回線に飛ぶメイズの指示はこちらのチームのほとんどをピア・スノウの事務所へ向かわせるものだ。釣り針である颯の元には数人の戦闘員と、バックアップチームをまとめるカレンだけが残ることになる。
 了解、とだけ応答する。これなら事務所に相手の本隊が行っても暮葉を守りきれるだろう。正直本隊かわからないが、保険をかけておくに越したことはない。
『釣り針よりM1。小魚がかかった』
 角を曲がったところで追ってくる足音に気が付いた。さてどちらが囮か。腹にぐっと力が入る。緊張感が体中に行きわたっていく。その中で胸の奥に疼き始めたものがある。水風船のようなそれが跳ね始めている。跳ねるほどに大きくなるその振れ幅とともに弾けそうになるそれは、高揚感だ。
『B1より釣り針へ。魚以外のものが引っかかっている』
 カレンの声だ。
 連中以外で尾行してくるような心当たりは異人部隊くらいのものだが今は作戦中だ。残るは、翼ぐらいだろう。
 最近事務所に顔を出していないから様子を知らなかった。翼も同じだろうが、同じだからこそか。よりによって今夜。もし事務所が本隊なら。
「釣り針よりB1。そいつを任せる。M1、魚はかかっている。網へ向かう」
 メイズの判断を待っている暇はない。翼がやつらに見つかることはあってはならない。カレンの了解を聞きながら、少し歩調を上げる。後ろに娘の叫び声が聞こえ、駆け出す。翼だけでなくよりによってあの子まで。
誘導先の路地に入る。人がぶつからずにすれ違うこともできない細い路地。長さもそこまでない。待ち伏せの上各個撃破するのに最適な地形だ。こちらも多数に囲まれる危険性があるものの、異人部隊が待ち伏せをしているはずだ。
 その筈だが、路地に入った途端に銃弾が頬をかすめた。それも斜め上から。暗闇の中で少し先に人の降り立った気配がする。背後にもだ。
 手際がいい。こちらの狙撃手がやられていることからしてこちらが本隊だったか。
 胸の奥の水風船が跳ねまわる。弾けるのを今か今かと待ちわびている。
「そんなもの抜けんだろう!」
 数メートル先の敵が勝ち誇って駆けてくる。颯の腰に下げた剣はこの路地では長すぎて壁に当たってしまう。それを見越した発言だったが、颯は構わず抜いた。腕と剣先が壁に擦れるが、これしか武器がないのだ。仕方がない。斜め上方向からいくつかの赤いポイントが颯を探し始める。暗視スコープなど持っているだろうに、わざわざこんな真似をするのは多数から狙われていることをわからせるため。行動を制限する意図か、志気を下げたいのか。
 駆けてくる敵はその行動からして刃物を持っている。跳弾を避けているなら、降りてくるやつはみな銃を持っていない。面倒だ。狙撃手は上に行って排除するしかないということになる。
 目前の敵をかわし、隙をついて剣を刺す。背後の敵がその隙をついてきた腕をとって再び刺したところで第二陣と銃弾の雨が来る。銃弾は完全には避けようがない。当たらないあたりをつけて降りてきたやつらを片づける。死体を盾にするときなど装備を漁ってみるが、銃は持っていない。投げナイフでは狙撃手に対して射程が足りない。せいぜい降りてくる敵の片づけに使えるくらいだ。やはり囲まれていては不利になってしまう。狙撃手を排除しなければ。
 ただ相手もしびれを切らしたらしい。新たに降りてきた一人が銃を持っていた。降下しながら撃ってくるのを、死体を盾に防ぎながら一気に距離を詰める。腕を振りかぶり、肩から斜めに両断する。この世界に来てからというもの、やる気になればなる程、筋力を越えて力を込められるようになった。竜の力というものは確かに絶大だ。骨を断って刃のこぼれた剣を捨て、銃を拾う。
 胸の奥で水風船が狂おしいほど跳ね回っている。ああ、わたしも気が狂いそうだ。
 路地の向かい端に降り立った敵を一発で撃ち倒し、一番遠そうな狙撃手へ向け投げナイフを飛ばす。全力だ。肩と肘がちぎれ飛びそうだが、それすら心地よい。その痛みが正気に戻してくれるような気がする。膝に力を溜め、跳躍する。壁を蹴って高さをかせぐ。赤いポイントマーカーが集中するが、大丈夫、風が守ってくれる。胸の奥の水風船はいつの間にか弾けていた。思い通りに、すべて思い通りにすることができる。なんだって。眼下から風が通り過ぎる。その疾風は颯の体を押し上げ、銃弾を逸らす。
 頭を押さえた狙撃手などねらい打ちだ。
「貴様!!」
 路地に再び降り立ったとき、女のものとは思えない低くしゃがれた声が突進してきた。見た顔だ。
 高揚感に任せて女の伸びきった腕を掴む。腹に膝を、落ちてくる顎に肘を、落ちていく頭にかかとを叩き込んだ。起きあがろうとする頬の至近に銃弾を打ち込みながら、無様にされるがままの追っ手を見下ろした。
「榊麻耶。白伊でありながら瑠璃にもなれない女。答えろ」
 日本では執拗な追っ手の中でも苦しめてくれた女だ。颯のそれなりに近い親戚のはずだが、家系図が複雑すぎて分かりたくもない。
「ホウエルという家を燃やしたか」
 異人部隊の標的は榊麻耶一人だという。この女の指示によって多くの人間が殺された。
「どうかな。いちいち覚えていない」
「だろうな。おまえ、私を追ってきたのか」
 予想できた答えだ。メイズに本隊が当たらなくて良かった。仇がこれでは怒りも収まらない。
「そうだ! 殺してやる!」
 榊麻耶は野犬のように吠えた。発作的に起きあがったのを蹴り倒す。
「おまえ、ひとりだな」
「だからどうした!」
 部下の血にまみれて這いつくばったまま榊麻耶はなお吠える。
 翼は振り切り損なってはいなかった。ミスを犯していたのは颯のほうだ。五年もの間追っ手に気づかず放置していたということだろう。
 この執念ぶかい女だけが残った追っ手と考えていい。
 だが、メイズや異人部隊に聞いた榊麻耶とは印象が違うのが気になる。彼らの話では榊麻耶は冷酷で、狡猾だった。颯の知る榊麻耶とは違ったから、見ない間に成長したのだとばかり思っていたのだが、この榊麻耶は颯の知っている女だ。冷酷でも狡猾でもない、憎しみに駆られているだけの愚かな女。
「おまえ、私を殺したいんだよな」
 銃を放る。榊麻耶がその手に取ってすぐ撃てる位置に。胸ぐらを掴んでわざわざ起きあがらせる。壁にもたれさせ、至近距離で見下ろして挑発する。
「さあ、私を殺してみせろ」

***
 榊麻耶の眼は颯を見つめたまま動かせなかった。まばたきすら忘れて、口で荒く呼吸しながら、銃口は大きくぶれていた。腕がおかしいほど震えている。この女が生まれなければ榊麻耶が直系の血筋としては最も良い組み合わせの子供だった。この女が双子でなければ、せめて男だったら。だったら白伊の家はこの女にここまで執着することはなかった。好きになった男だって、自分の自由にできたはずだったのに。
 私が先に好きになったのだ。彼はあの日、私に会いに来るのに近道だったからあの道を通ったのだ。それなのに、この女に会ったからこの女のものだなんて。
「殺してやる」
 自分の声なのに自分の声ではないみたいに聞こえる。みっともなく震えていて、颯が笑う。こんなに近いのに狙いが定まらない。
「私を殺したいほど憎んでいるくせに、それもできない。この腰抜け」
 颯が顔を近づけてくる。肩で息をしたこの女の荒い呼吸が頬に触れた。汗と血のにおいが鼻をつく。返り血を全身に浴びておきながら、ハイになって笑っている。この女は汚れている。なんて汚らわしい女。