竜と世界と私

二章-七

***


 榊麻耶の首に剣先を沿わせる。つまらない女だ。執拗に追うだけで、自らの手で成し遂げることもしない。
「なら終わらせてやる」
 榊麻耶の銃口が大きくぶれた。食いしばった歯ががちがち音をたてる。どうせこの体勢からでは一気に首を落とすことはできない。せいぜいこの女の虚勢を楽しませてもらうことにしよう。
『そっちが本隊だろう』
 腕に力を込めたその時だった。忌々しい男の声が無線機から流れてくる。メイズを出し抜けたと思ったのに、確かにこいつなら予想できるだろう。だからメイズを出し抜こうと決めたのだが。
『榊麻耶を残しておけよ。大事な謝礼だ』
 その上この男の借りの返済に使われるだなんて。思わず舌打ちが出た。榊麻耶の手から銃をもぎ取り、こめかみにかかとを打ち込む。倒れ込んだこの女は死体に紛れてすぐには見つけられないはずだ。
「翼、聞いた通りだ。装備をもらっておけ。部隊の連中が来たらなにも残らないぞ」
 いつの間にか路地の入り口に来ていたらしい翼に声を飛ばす。翼ははっとして足下を見回し始める。
 銃の類はあちらの世界からのルートをメイズが握っている。異人部隊には装備が揃っているが、白伊の調達経路が分かっていない。メイズのルートから漏れているのか、独自ルートを持っているのか。どちらにせよ異人部隊の最大の標的である榊麻耶は捕まるのだから明らかになる。異人だということを伏せて地位獲得のために奔走していた颯にはこの手のルートを持っていない。こちらに来る前は裏ルートがいくらでもあるだろうと踏んでいたのだが、メイズの監視が徹底していて気づかれずに調達することはできなかった。
 翼にも手持ちの銃はあるはずだが、数は持っていない。これからの自衛のためにも武器は多いに越したことはなかった。
「聞いたとおりって?」
 無線を渡せと言ったのに。
「出し抜いたのがばれた。この女を探しに部隊が向かっている」
 たかぶっていたものが急に冷めてしまった。まだもっといけたのに、無粋な。
「私は朱伊の診療所に行く。適当に拾ったら戻っていい」
「そいつ、榊麻耶だろ。捕まったら白伊の事異人部隊にばれるんじゃ」
「あいつが上手くやるだろ。そうでなくてもどうなろうが知った事じゃない」
 忌々しいあの男――流風が榊麻耶をメイズに引き渡した後、彼がどうするつもりなのかは考えたくもなかった。それが今後自分達の行動を大きく決定づけることだとしてもだ。年単位ぶりでこんなにたかぶったのは久しぶりだったのに、邪魔された苛立ちが抑えきれない。冷や水をぶっかけられて無理矢理鎮火した炎の燃え残りがまだちらついている。それをどうにかしたい衝動に動かされて、その他の事などどうでも良かった。

***
 イオレは師匠の事務所に向かっていた。翼が行き先を言わずに行ってしまったから、追いかけるあてもなかった。あてもないのに、白伊がうろついている夜の街を探し回るほど馬鹿でもない。事務所にも白伊が襲撃をしているのだから放っておけなかった。奴らは人を人とも思わない。尊敬する師と兄弟弟子、兄だと思っている翼の彼女がそんなやつらに襲われようとしている。自分のせいだ。父にずっと「お前が最大の弱みだ」と言い聞かされてきたのだから。
 カレンはそれを知っているのかいないのか――知っていたとしたら父を軽蔑する――事務所へ向かうのを執拗に止めてきた。危ないから、と言うこの母親候補をこれだから信用できない。知れば知るほど嫌悪感が増す。母さんならそんなこと言わずに協力してくれるはずだ。きっと、母さんなら。きっと、たぶん。
 カレンを撒くのにかなり遠回りしてしまったが、事務所には辿り着けそうだった。真夜中から朝へ傾き出した大通りは静まっている。第三首都だけあってこの時間でもごく僅かな人通りがあり、通る人通る人がみな怪しく見え、イオレは道の隅に寄った。耳をすませるとざわめきが聞こえる。叫ぶ声や怒鳴る声が混じり合っているようだ。歩みを早める。事務所に異変は見られない。襲撃は裏側からのようだ。大通り側から事務所の裏へは、中を通り抜けるしかない。手早く警備魔術を解除して中に入る。外からは聞こえなかった声が、がらんどうの一階に響いている。数人が怯えてきゃんきゃん喚いていた。この騒ぎの中、一階に誰もいないのは不自然すぎる。嫌な予感が寒気になって背中を駆け上がってくる。
 裏口の戸を開けて見たのは東の背だった。戸に背を向けてただ立っていた。人影が彼を取り囲んでいる。向かいの建物――朱伊皐月の診療所――の屋上やその隣の建物、この決して広くない路地に集まった男や女は東に銃口を向けていた。その全てが震えている。
 なぜ死なない。喚く声はイオレを意にも介さない。
 東目がけて発射された弾丸が彼の肩をすり抜けてイオレの頬を掠め、閉じたばかりの戸にめり込む。
 東はそれを痛がりもしない。肩から血を流してもいない。
 天界人は魔術粒子が人をかたち作ったものだ。魔術に精通した東なら自身の身体を分解することも可能なはずだ。初めて目の当たりにした。
「弾の無駄だな。さあ、お開きだ」
 暢気な声は母のものだ。行き先はここだったのか? まさか。東の肩越しに見えた母の姿は頭のてっぺんからつま先まで血で赤黒くてらてらしている。同じく血に染まった剣を路地に立ち尽くす男の首にあてながら、ゆっくり、言い聞かせる。
「さあ、お開きだ。榊摩耶を取り戻しに行ったらどうだ」
 男の顔から血の気が引く。彼らのボスが異人部隊の手に落ちたという事だ。白伊には忠誠心などないが、ここまで榊摩耶についてきた連中は特別だろう。
 東への怯えを捨てて、彼らは一目散に去っていく。颯はそれを満足げに見送って、診療所の戸に手をかけた。
「あんた、覚えておけよ」
 東の声――聞いたこともないほど怒っている声を背に受けて、颯がこちらを向く。東を見て、肩越しに眼が合った。
「楽しみにしておく」
 母は顔色ひとつ変えずに言い残し、診療所の中へ消えた。東が怒りに任せて振り返り、肩が当たってよろめく。彼はそこで初めてイオレがここにいたことに気がついたみたいだった。彼の表情が怒りから別のものに変わるが、それがなんなのか分からない。今自分がなにを感じているのかさえ分からないのだから。