竜と世界と私
二章-三
「地上を勝手に線引きした人間が、世界までそうするのは勝手だ。だが、私をそれに使うなどとは考えないことだな」
竜はうっそりわらった。ざわざわ、発動を待つ魔術がさざめく。人が竜を怖れるのは、人が頭を絞って使う魔術を、息をするみたいに使うからだ。人が一度に指示することのできる魔術粒子には限りがある。竜にはそれがない。魔術粒子の塊である身を構成できなくなるまで、限りなく無限に近い魔術粒子を操ることができる。巨大な身体と牙、爪を動かす必要もなく、眼に見えず、存在だけは感じ取れる魔術に狙われる。人間がその恐怖に固まっている中、ピアのそっけない声が投げ捨てられた。そうね。
「世界に振り回されるのも疲れるしね。彼らにまで振り回されるのは嫌でしょ」
懐柔する言葉はしかし随分そっけない調子だ。彼女は肩を竦める。
「でも振り回されてもらわなきゃ困るのよ。私もあなたも、命がかかってる。ついでに彼女もね」
彼女が急に大股で向かった先には恋人の腕にしがみつく暮葉がいる。ピアは虚空から剣を引き抜いた。
「ご馳走を前に死ぬのはどんな気分かしら」
ぐるるるる。鼻息荒くナディアは唸る。それを見上げるピアの眼は笑っている。
翼が暮葉の肩を掴んでじりじり後ずさりしているが、彼の後ろには青い上着の魔術師が数人。両方からは逃げられないだろう。
ピアが立ち止まる。剣が届く距離まであと一歩。翼のタイミングを図る足をずらす、ざり、土の音が聞こえる。
ナディアは再び唸り、
「昴、魔術粒子の供給源は“皿”だ。違いないな?」
事態について行けず立ち尽くす天界人に怒りの声をぶつける。明らかに八つ当たりだ。
昴は頷く。
「閉ざされたこの世界が外の世界と繋がるとどうなる」
待て。昴は言って竜と竜を脅迫する魔導師を交互に見遣る。
「話が見えない。彼女の命と、君になんの関係がある」
私に。
ナディアとピアの声が重なる。どちらも同じ、怒りを押し殺して、押し殺しきれていない声だ。
「説明する義理はない。特にあの忌々しい”皿”の連中にはな」
続けたのはナディアだった。
「もう一度聞く。閉ざされたこの世界が外の世界と繋がるとどうなる」
竜の声には三度目がないように聞こえる。満足できる答えが無ければ、さざめく魔術の波がこの場をなぶるに違いない。ピアが暮葉を殺すのがその前か、後か。
昴に視線が集まる。しかし彼は答えるのを渋った。
「天界は供給限界にある。世界が繋がれば魔術粒子が満遍なく行き渡ることはなくなる」
竜は答えない。満足していないのだ。
天界人は声を絞り出した。
「魔術の発動に必要な量を確保することは極めて困難になる」
つまり世界を守るのは”皿”を守るため――魔術という特権を持ち続けるためだ。天界人と魔術師団と隣国の魔導師が手を組む目的としては十分すぎる。
「どうだ、今の気分は?」
ナディアが眼を細める。脅迫するピアと同じ眼だ。昴は俯いて答えない。
「世界が解放されれば、あなたも、あなたの同胞も死ぬ。困るでしょう」
どうかな。ナディアはピアをあざ笑った。ぐっ、竜が器用に首を巡らせ、足下にいるこちらへ、鼻先を突きつける。鼻息はむせるほどあつく、しなやかなしろい肌は鱗に覆われている。最初に会ったときと違うのはなぜだろう。大きく澄んだ眼の瞳はくろい。その奥が計り知れなくて、背筋が寒くなった。自分は今、崖っぷちに立っているのか。
「彼女を喰えれば満足ってわけ」
ピアの声が飛んでくる。不満げな声。が、そんなものより、自分が何か言うべきだ。この竜に、ナディアに対して。
「満足した私は口を滑らせるかもしれないな」
ナディアは意地悪くほくそ笑んだ。ピアがこれ見よがしに舌打ちするのが聞こえる。
「さて、アレイシア。教えて貰おう。なぜ来た」
「ピアに会うため。会って、なんのつもりか聞くため」
泣きそうな声だ。震えている。情けない。でも今はそれが精一杯だ。
「お前は聡い。昔からずっと。こうなると分かっていて来たはずだ。そこまでする理由は本当にそれでいいのか」
それは真実ではないと言いたげだ。ナディアのひとことひとことが頬をなぶる。確認する口ぶりは、何を言わせたいのか。
「何を言わせたいの」
絶対に言ってやらない。これは意地だ。ピアを問い詰めるつもりで来たのに、彼女は彼女自身のために行動している。なんて空回りだろう。その上こうして食べられようとしている。一つくらいなにかできたっていいじゃないか。
ナディアは笑った。細めた眼に温かさが見える。
「真実を」
真実。真実なんてない。まだ死にたくない。この世界で唯一の研究が私を待っているのだ。それ以上に大切だったのがピアだったから。だから来た。自分の命よりも大切だったから。
それは本当? 私はそんなにピアが大事?
違う。自問自答して、余計にわからなくなる。思い出せ、竜に対する、命を失う恐怖以外の事を。
自分が目にするには尊すぎる。ナディアと出会ったときに最初に思ったのはそれだった。この身を晒してしまったことがとても罪深いことのように感じた。
鋭利で直線的なかたちをしているのに、触れるとしなやかで、ずっと触っていたくなった。ざらついているのに肌に刺さる感覚はない。このこそばゆさが、手のひらにずっと残っている。また触りたい。もっと触っていたい。
この手のひらは十数年前にナディアに触れた。あの感覚も、未だこの手のひらに宿っている。
「触りたい。もっと、ずっと」
そうか。勝手に転がり出た答えを聞いてナディアは眼を細め、喉を鳴らした。まるで猫だ。手のひらに懐かしい感覚がある。ざらついているのに、吸い付くようにしなやかで、冷たいようでいて実はとても温かい。知らずに伸ばしていた手を動かす。竜は動かない。鱗の固く冷たいのに、それを隔ててなお伝わってくる熱がある。
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