竜と世界と私

二章-二

「実に不快な呼び出しだ」
 竜は低く唸った。牙の間から漏れ出る声も不機嫌にすごんでいる。
 幼い頃に出会ったときとは、いろが違う――朝日の中に消えていったくろい染み、先日事務所に現れたしろい鋭利な体。でもどれも、この、この竜。姿かたちを全て覚えているわけではない。覚えているのはあのなんとも言えない手触りと、くろい染み、呼吸するだけで鼻がつんとする空気。においで分かる。なにか、なにか言わなければ。何に急いているのかわからない。でも、なにか。あの牙に裂かれる前になにか伝えておきたいのに。
「やあ、ナディア。会いたかった」
 天界人の声が聞こえて、竜を見上げたままだったことに気がつく。ナディア。まさしく。この名前にはこの存在にしか当てはまらない。ありきたりな人名なのに、どうして今までこの竜と結びつけなかったのか不思議でならない。
 天界人が笑顔で腕を広げ、数歩前へ、こちらへ寄る。ナディアは鼻で笑った。
「はじめまして、昴。私は会いたくなかった」
「欲しいものは渡した。我々に大きな貸しをくれても構わないぞ」
 身を乗り出したナディアの腕が、すぐ横を踏み抜く。
「彼女を渡すことができるのは彼女だけだ」
取り返されるのを待つか、自ら返すか。その時を決めるのが自分か相手か。
 幼いあの朝、ナディアがこの身に残していった魔術に関するあらゆるものを返さなければならない。この身ごと返さなければならない。「その時を決められるのは本人だけなのよ」そう言っていた姉を思い出す。姉には決められなくて、代わりに決めたのは相手の竜だった。
「私の目の前で彼女を殺そうとしたな。その理由を聞こう」
「あなたにどうしても会いたかったから」
 ピアの声だ。彼女は天界人の――昴の一歩後ろに立っている。足下にいるだけですくみ上がってしまう威圧感をものともせず、
「竜が墜落する原因を知りたい。教えてくれるなら私の命をあげる」
「私には興味がないな」
「あなたにはね。でも復讐に燃える同胞は?」
 なるほど。それでもナディアは興味なさそうに相づちをうつ。
「ピア・スノウ。この限られた世界で魔術粒子の地上分を管理するために存在するお前が、私に助けを求めるとは。まずは考えを聞こう」
 随分重要なことをさらりと言う。初耳だ。魔術粒子について便利なものだということ以外を知らないのは地上の人間だけだろうという通説によれば、竜が明言し、昴と呼ばれた天界人が否定をしないこれ――魔術粒子は地上と天界で別けて管理されている事、その地上分を管理しているのがピアだという事、ピアがそのために存在している事は事実なのだ。
 もしかしたらこの場は――ピアと竜と天界人と魔術師団が同席しているこの場は、とてつもなく重大な意味を持つのかもしれない。それをお膳立てしたのは、まぎれもなく昴だ。
「竜は一定数以上の魔術粒子の余剰分が集まったものでしょ。どうしてそうなるのかは、私も天界人もあなた達も知らない。だから、その仕組みに不調があるんじゃないかしら」
 それは知っていた。天界人も竜も知らないというのは知らなかったが。
「知らないことより、わかりきっていることはどうだ。ピア・スノウ。お前が、我々のうちの一つを殺し損ねたからだとは考えないのか」
「もちろん考えた。私は、地上に魔術粒子が不足していることを感知していなかったから、あなたに確認したい。私のミスか、私達の計り知れない世界のせいか」
 ナディアが喉を鳴らす。ぐるるる。細まった眼は楽しげだ。竜はなるほどと前置きして、
「それだけにしては多いな。天界人と魔術師と、外の世界の住人。今一人増えたか」
 一同を見渡す。早坂は何か言いたげに一歩踏み出したが、「一人増えた」と聞いて振り返った。青い上着を着た魔術師達がそれにつられる隙をついて、翼は抑えつけられていた魔術師を振り払って暮葉を引き寄せる。
 新しく加わったのは男だった。紅い上着を着ているが、形は違う。魔術師の色区分はこの世界で共通だ。しかし上着の形は国によって異なる。男の上着は隣国のものだ。
「遅れて申し訳ない。ジョンだ。宜しく頼むよ」
 隣国の魔導師ジョン・カーター。外の世界の技術を魔術と融合させる研究の第一人者で、隣国の魔術師のトップ。
 彼は緊張を感じている様子もなく、早坂と昴に手を上げて挨拶し、昴の横に並んだ。
「ああ、ここは緩衝地帯だからね。未だ敵国同然の君たちがここにいることは一先ず黙ってある。なにせ世界を決める大事な場だ」
 なんのことだ。誰も答えないことで彼は気がつく。
「なんだ、早坂はまだ話していなかったのか。我々はね、ここにいらっしゃる昴殿の協力を得て、この世界の守りを固めるつもりだ。貴君らにも協力してほしい」
 ジョンはなんてこともないように言った。それでも声は真摯に聞こえる。
 竜は地上と天界どちらにも属さない第三勢力だ。本当に世界を守るつもりなら味方にしたいだろう。
「この世界はあの“皿”によって守られている。我々が望む望まずに関わらず」
「外の世界は我々の世界より広い。異人は少しずつ増えている。そして、遠からず異人達に攻め込まれるだろう」
 ナディアは鼻で笑う。それが建前に過ぎないことはアレイシアでもわかった。ジョンもまさか本音ではないだろうが、上手くそれらしく装っている。
 アレイシア達の仕える国が表明している意志は「世界解放を支持する」だ。一枚岩でないあの国のどの勢力の意志かは知らないが、議会と深い繋がりをもつ魔術師団がそれに反対する思想を持っているということは、王宮側の意志なのだろう。
 ジョンの属する隣国は異人の持ち込む技術を取り入れる政策を推し進めている。そのため表明されている意志は「世界解放を推し進める」だ。そもそも言い出したのは隣国で、ジョンの行動とは異なる。どこも一枚岩ではないのは同じか。