竜と世界と私

二章-一

 馬車から降り立ったのは懐かしい場所だった。古ぼけた城砦造りの、塀に囲まれた前広場。アレイシアがここに初めて降り立ったのはもう十年近くも前になる。
「母校へ帰ってきた気分はいかがですか」
 もう一台の馬車に乗っていたらしい天界人が訊ねてくるのを無視する。が、ピアに肩を押されて、
「竜はなぜここに?」
 渋々会話を始める。でも聞かれたことには答えてやらない。絶対にだ。なぜピアはこんな奴に従うのか。
「君を追ってきた。その時に君はもう彼女の助手になっていたがね」
「まだここに?」
「追い出す者がいない。それにここは彼にとっても懐かしい場所だからね」
 まるで知っているかのような口ぶりだ。懐かしい? 思わずオウム返しした言葉を聞いて天界人は眼を細める。
「彼はね、初めて召喚された竜なんだ。伝説に名高いオフィーリアによって。それによれば、彼は随分と一途でロマンチストじゃないか。会うのが楽しみだよ」
 反射的に組み立てた術式は魔術粒子を一直線の刃物にして天界人の喉へ飛ばした。それを、彼はつまみ上げる。眼に見えるはずはない。
「なるほど、君はこうしてここを生き抜いたわけだ。しかし無礼が過ぎる」
 彼は軽く手を振る。取り巻きの魔術師達に送った合図かと思いきや、動いたのは紅い上着だ。背に堅いものが当たる。つい最近も感じた感触。
 私だって命がかかってる。耳に触れた息と一緒に、ささやき声がくすぐってくる。そのこそばゆさに身体をひねると同時、後ろ手に縛られていた紐が解かれ、ピアに突き飛ばされ、よろける。彼女は掌を鞘にして虚空からゆっくり剣を抜く。透明のそれを構成するのは水だ。
 見たことがあった。刀身は変幻自在だが、触れるだけでぱっくり裂ける。彼女のとっておきだ。
 相手のしようがない。ピアが肩から突っ込んでくる。慌てて飛び退くが、振り抜かれた切っ先が頬を掠めた。鋭い痛みが走る。どうして。思うものの頭の中はまとまらない。返し手で振り下ろしが来て、横、切り上げ。その度に一歩ずつ下がり、背が馬車に突き当たる。
 誰一人殺させやしない。あれは、自分が手を下すっていう事だったの? でも、それなら。
 まとまりそうな思考が、再びぱっと散る。剣を突き立てたピアの眼に魔術を見たからだ。
打ち消すことなんかできない。彼女が今何を考えて、何をしようとしているのかわからない。今まではすぐにわかったのに。それでもこのままでは後ろにも前にも行けない。
 馬車を吹き飛ばし、その爆風の中へ、背を倒す。馬車に手を着いていたピアが前へ、倒れかかってくるのを避けて駆け出す。雑に組み立てたにしては派手に爆発したが、ピアの術を邪魔できたのは幸いだった。彼女にしては組み立てに時間がかかっていたが、何の術だったのか。だってどうせ殺せないのだ。竜に差し出すときは無傷でなければならない。
 それなのに、これはどういうことだ? あの天界人もピアも承知しているはずだ。なのに、なぜ。
 知らないうちに足が止まっていた。背に聞こえるのは馬車の破片を踏む音だ。ハイペースのそれは、ピアが駆けてくる音。近い。もう射程範囲に入っているかもしれない。それでも足を動かせなかった。あの天界人が演出をしてピアが演じさせられているこの茶番はなんだ? おそらく事務所の前から続いていたこれは?
 振り返ればピアはすぐそこまで近づいている。剣の柄を腰で握りこむ構えは刺すためのものだ。わからない。それでは殺してしまうのに。
 幕が降りるように、ピアとの間にしろい帳が降りてくる。触れてもいないのに硬質だとわかるそれは、翼だ。仰ぎ見れば、竜の顎がある。その向こうに空に浮かぶ”皿”が見えた。