d> 竜と世界と私 -二章-五-

竜と世界と私

二章-五

 もしかしたらこの言葉は本当かもしれない。ピアへ情があったのではなくて、ただ竜自身の問題であると口にしたくなかったのかもしれない。別にどちらだろうが構わない。構わないが、どちらだろう。ナディアの手が、背から胴体をわし掴みにする。鋭い爪の鋭利な先が背か腰に刺さり、締められる圧迫感が内臓を圧して息が詰まる。空気の塊に圧されて頭が揺れ、くぐもった耳の向こう側で、ごう、音がする。反射的に閉じた眼は薄くしか開けることができない。風に瞼が持って行かれそうだ。一気に勢いを増した熱風は炎と化して水の盾を相殺し気化させている。もうもうとあがるしろいもやが、ナディアの羽ばたき毎に――竜は宙で羽ばたきながら地上を見下ろしている――晴れては再び人間達を覆い隠す。
 その中で、翼は暮葉の手を引いて走っている。青い上着がその二人を探し迷い、早坂はジョンと昴どちらにも相手にされず惑い、昴はピアの腕を掴んで詰問している。ジョンは、兵士数人と話している。いつの間に来たのか、馬車がいた。荷台に幌が付いていない、土木資材などを運ぶ馬車だ。馬車の周りに隣国――ジョンの属する国の兵士が五、六人いて、一人が荷台から何かを見せる。無理矢理上半身を引っ張り上げられたそれは見慣れた軍服を着た人間だった。上着が極端に短くて腰の部分は下に着たシャツが見える。血で真っ赤の頭。
 遠のいていく。小さく、点に近づいていく人間達のひとり、ピアと眼があった。泣きそうな顔。情けない。思わず口角が上がった。彼女なら、馬車の荷物に気がつくはずだ。大丈夫、なんとかしてくれる。きっとそうに違いないと思える。
 降り立ったのは最も高い位置にある空間だった。この建物が学校として使われていた頃には立ち入り禁止だった、いくつかある塔の最上階。
 ナディアの手は人間の身体をどう手放したものか迷ったみたいだった。足の着くか着かないかという高さで手放されて、アレイシアは尻もちをつく。慌てた竜が頭ごと鼻先を近づけてきて、思わず顔が引きつった。
「怪我はしていないな?」
 ナディアはこちらの全身をよく見ようと首を捻る。人間の身体に対して竜の頭は大きすぎて細かい所までは見えないようだった。両手を万歳の格好に挙げて、答える。大丈夫。これから腕を一本食いちぎろうとしているくせに。
 右腕を前へ、伸ばす。すぐそこにある竜の眼の、すぐ下へ。瞳が手の動きを追う。
この手のひらは十数年前にナディアに触れた。あの感覚も、未だこの手のひらに宿っている。鋭利で直線的なかたちをしているのに、触れるとしなやかで、ずっと触っていたくなった。ざらついているのに肌に刺さる感覚はない。このこそばゆさが、手のひらにずっと残っている。また触りたい。もっと触っていたい。
 この手は、
「この手は、あなたのものだった。ずっと、あの朝から」
 これからもそうだ。
「当然だ」
 ナディアは眼を細め、左腕を咥える。視界が火花で埋まった。