竜と世界と私

二章-六

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 魔術師団の馬車が国境を越えるのを待って、実験の最終段階を始めることができた。国境を越えるような非常識極まりない連中を待つだなんてイオレには馬鹿馬鹿しかったが、尊敬する師匠に頼まれては仕方がない。その時にも聞かれたが、国境警備隊に母が来ている。実験にあたって拠点にしている町を母が通り抜けていったのを人づてに聞いたのだった。なにを今更。こっちは実績を作るチャンスなのだ。目の前をうろちょろして邪魔しないでほしい。
 魔導師に任命されてからずっと、周りがひそひそ噂話をするのを我慢してきた。あることないこと、よくネタが尽きないものだ。それを全て今日、黙らせてみせる。それだけの自信がある実験だった。
 魔術学校に在籍していた頃から続けている研究は、魔術を発動させる際に魔術粒子が発生させるエネルギーを操作するというものだ。例えば魔術で物を持ち上げるとき、魔術粒子は必要なエネルギーを自身で作り出す。そのエネルギーを、物を持ち上げるという魔術抜きで使うというものだ。ピアの元で弟子をしていたときにアレイシアの研究を手伝う機会があって、そのときに思いついた研究テーマだった。
 術の有効範囲は半径数キロを想定している。計算上の数値は三キロだが、実際やってみないことにはなんとも言えなかった。そのため実験場所は国境に最も近い町と、国境の緩衝地帯との中間地点が選ばれた。障害物がなく、人も住んでいない広い場所がここくらいしかないのだと聞いた。場所を選んだのは軍だ。この実験が成功すれば、術式は軍の魔術師部隊へ正式採用が決定する。卒業前からのパトロンを失望させるわけにもいかない。
 予め組み立てておいた術式の確認は行きの馬車の中で済ませた。機械的に術式を魔術粒子へ伝えていく。一面に広がるなだらかな緑の草地は、かつて国境がここまで後退していたことを意味する。魔術師達が、イオレの立つこの地点から放射線状に一定間隔を空け立てた目印の紅い旗が風にはためいている。五キロ先から合図の光が一直線に空へ上がった。旗を立て終えた合図。全方向の合図が上がるのを確認して、こちらからも合図の光を上げる。陣――術式が膨大で術式を魔術陣として書かざるを得なかった――の外で魔術師のカウントダウンが始まる。
 これが成功すれば、遠くに見える国境警備隊基地にいる母と最低の父の助けなんかなくても生きていける。子どもは親を選べない。この不幸から解放されるのだ。
 カウントダウンがゼロになると同時に、最後の術式を繋げた。全ての術式が繋がり、魔術粒子が命令の実行を始める。数秒後には周囲の旗が次々と倒れ始めた。数百メートルを超えたところで、放射状に倒れていた旗が一方向に偏り始める。それは次第に速度を上げて、放射状の筈が一直線に国境へ向け駆け抜けた。
 ずずん! 大きな地響きと縦揺れと共に、その軌跡が陥没した。揺れの中地面に齧り付いて這いずって見た限り、幅十メートル、覗き見ただけでは深さがどれほどかはわからない。ただ、どこまでも続いているような深さだ。底は真暗くて見えない。
 イオレは慌てて馬車に飛び乗り走らせた。陥没は国境警備隊基地を半壊させてなお国境へ向け続いている。騒ぎに乗じて基地を素通りし、緩衝地帯に入る。陥没は緩衝地帯もまっすぐ貫き、国境を越えていた。
 国境の壊れた塀に人だかりがある。隣国の兵士だ。その中に、母の姿がある。
 なんでこんなところに。
 荷台から身を乗り出した途端に引き戻される。母は殴られているように見えた。どうして。脳裏にある噂話がよぎる。東の国境が激戦区だった頃、死体の山を作って笑っていたんだって。
 魔導師だ、兵士の声が聞こえる。馬車がきびすを返して走り始めた。
「あなたはこのままエイローテへ行って下さい。良いですね?」
 馬車に同乗していた魔術師部隊の一人に言い聞かせられ、イオレは頷くのが精一杯だった。