竜と世界と私

三章-五

 彼は弟と暮葉にここに残るよう指示した。アレイシアも残るよう言われたが、地下のどこに颯がいるのか分からない。迷われたら困ると言って同行を押し切った。
 地下へ続く階段はかなり長かった。足下が見えないからそう感じただけかもしれない。下りきったところに燃えさかる松明、兵士が一人立っていたが、アレイシアの先を行っていた男に瞬時に「撃ち」倒されてしまった。轟音が地下に響く。あの武器はこんなに大きな音がするのか。
 彼はそのまま角を曲がる。立て続けに轟音が響いた後、手招きする腕だけが角から出た。
 角を曲がって見たのは倒れた兵士が数人と、もう誰も前を遮っていないにも関わらず武器を構えたままの男。彼はじりじり手近なドアに近づき、少しだけ様子をうかがって蹴破った。轟音はしない。待っても手招きはなく、彼も出てこない。
 倒れている兵士はさっきから動かない。ゆっくり踏みだし、それでもこちらに気がつかないか確認して、足の踏み場を選びながら蹴破られたドアに近づく。ナディアは気にしたふうもなく、すいと部屋に入っていく。覗くと、中はぼんやり明るい。光源は松明の火だった。二人分の影が入り口まで伸びて揺らめき、ナディアの羽ばたく影がちらちらする。一歩踏み込んで、血の臭いが鼻をついた。颯の顔半分を濡らしていた血。でもそれだけでこんなにきつい臭いがするだろうか。
 あおい髪の男は横たわった女の上半身を肩で支えている。こちらからは背しか見えないが、ぼそぼそ交わされる声といい、近寄りがたい。
 そういえばなぜ彼は颯を助けに来たのだろう。彼女達の話に出てくる”イオレの父親”は、良く思われていない印象だ。翼は考えるだけでも嫌だと言っていたほどに。だからよほどろくでもない男だと思っていたが、実際は非常にまともに見える。塔で出会ってからこれまでの態度は颯の救助のためになりふり構っていられなかったのではないだろうか。颯が彼に協力を請わなかったのは、彼の人となりのせいではなく、ただ彼女が未練を持っていたからではないのか。それならむしろ、イオレのためにも彼女達に彼は必要だ。
「それは、我々の意見するところではない」
 ナディアの声が響く。男が、ぱっ、とこちらに顔を向ける。呼ばれてもいないのに入ったのはまずかった。そもそも、地下で迷うからと付いてきたのに迷いようがない場所で颯を見つけた時点でお役御免だ。ごめんなさい、邪魔するつもりはなかったんです。そう言うべきか、しかしそんな緊張感のないことを言っていいものか。
「少し代わってくれ」
 逡巡している間に飛んできた言葉が意外で、意図も良くわからないまま頷く。
 腰を浮かせた男から、颯の背に回した右腕と頭を預けさせていた肩を交代する。生暖かい血が右半身を濡らす感覚がある。立ち上がった男の右半身にも血が移っている。
「応急処置はしたが出血がひどい。鎮静剤を打って、一番近い町に運ぶ」
 怪我は頭だけではないということか。颯の顔は向かって右側が布で覆われている。血の染みがどんどん広がっていく。左側のまぶたは薄く開いているが、その眼がなにを捉えているのかはわからない。口も薄く開いたり閉じたりするが声は聞き取れない。ちらりと覗いた腔内に前歯がほとんどないことにぞっとした。彼女は意識があるものの朦朧としている。
 男が注射器で颯に鎮痛剤を投与するのをただ見ていることしかできない。彼女がここでどんな目に遭ったか、想像を絶する。
「翼に退路を確保させてくる。すぐ戻る」
 こちらに、というより颯に伝えたという感じだ。当然だろう。アレイシアは頷く。立ち上がる彼に、朦朧としながら颯が右腕を伸ばす。行かないで。とても彼女が言いそうにない言葉を、彼女が言おうとしている。その手を握る彼の手つきの優しさが意味するものは一体なんだろう。だが、こそばゆくて表情を見ることはできなかった。こっちが恥ずかしくなる。
 彼が部屋を出て行くのを見送って、ふと見回した室内は物々しい。蹴破られたドアには赤錆びた錠がじゃらついて、壁には一定間隔ごとに鎖が繋がれていたらしい跡が残っている。これも赤錆びて朽ちぼろぼろになって、残骸が床に散らばっている。その内の一本が、こちらに伸びていた。颯の身体を抱える腕に力が入る。どうして地下にこんな部屋が、しかも地下に入ってほど近い、元は修道院だった、最近まで学校として使われていた建物に。衝撃と疑問と怒りが頭を埋め尽くす。その中にぽっかり、冷めて諦観する感覚がある。ナディア。いちいち人の頭の中で存在を主張する竜は室内をぐるりと回って呟く。
「私が最初に来たときに見覚えがある。オフィーリアの記憶にあった」
 この竜には現状などどうでもいいようだ。あれだけ助けなければと煩かった颯を前にして、関係のない昔話なんか。
「ここは数百年前のものだと言いたい。このような部屋は無数にあったようだ」
 言い訳がましい声を無視する。学校になったときに設えられたものではなかったことにほっとしなかったわけではないが、それを知られるのは癪だ。
 腕の中から寝息が聞こえる。鎮痛剤が効いてきた様だ。肩から力が抜けた。長くしなやかな黒髪はざんばらで、でたらめな長さに切られてしまっている。半分だけ見ることのできる顔は血をぬぐった跡がある。かさかさにひび割れた唇。首には紫色の痣がぐるりと浮かび上がっていた。それは首を覆い尽くすほどに大きい。裂けたシャツの隙間から血の滲む包帯が見える。支える上半身を強く抱き寄せる。早くこんな場所から出さなければ。一秒でも早く。
 廊下から足音が響く。だが、来た方向とは逆だ。ぼそぼそした足音以外の音も聞こえる。話し声。一人以上が近づいている。彼ではない。奥にまだ隣国の兵士が残っていたに違いない。
 どうする。考えるものの思いつかない。颯の上半身を抱き寄せ、入り口を凝視していた。同時に複数の刃を指示することはできない。確実に一人の首は飛ばせるが、二人目かそれ以上は対処できる自信がない。今はナディアの召喚に、指示することのできる魔術粒子のほとんどを使ってしまっていて他に魔術を発動させるだけの余力がないというのが辛い。骨身に染みて使い慣れた細い刃の一本だけで精一杯だ。
 足音が止まった。彼がそうしたように様子をうかがっているのだろう。刃を準備する。入ってきた瞬間に確実に一人仕留めるために。すい、ナディアが入り口に向かって飛んでいく。室内に躍り込んできたのは色鮮やかな小ぶりの影。位置を微調整して刃を発射。その先に、見計らったかのように、竜がいる。刃は黒い竜の背に弾き返された。