竜と世界と私

四章-四

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 イオレはエイローテの端で馬車から降ろされた。魔術師部隊の軍人には、研究室へ先に戻っているようにと指示されたが、足はそっちへ向かわなかった。なぜなのかは、歩いているうちにぴったり枠組みにはまるみたいに分かった。
 言われるまま、されるがままに戻ってくるべきではなかった。
 ずんずん、歩けば歩くほど、胸が腹が、重くなるみたいだ。俯いて見える道の石畳、その苔の生えた、隙間にゴミの詰まった、表通りとは違う様相に早く抜け出したくて焦るのに、身体はどんどん重くなって、全然前に進まない。
 丸めて抱えた紅い上着が視界から外れなくて嫌になる。表通りから外れた、繁華街の裏道でこんなものを着てなんていられない。でも捨てることもできなかった。こんなもの欲しいと思ったことなんてなかった。そう思っていたのに、失敗して、失いそうになって、自分にはもうこれしかないのだと気付く。ピア・スノウの弟子で、軍の後ろ盾を得ていたからだけではない。
 母は、思っていたような人ではなかった。父には捨てられたようなものだ。もう頼れるものがない。ないのに、失敗に失敗を上塗りしてしまった。
 戻ってくるべきではなかった。あの場に留まって、実験の失敗――魔術の異常出力の原因を調べ、責任の在処を明確にすべきだったのだ。それをしても、きっと、いや間違いなく原因も責任もこの肩にあるんだろう。ただ、今軍の魔術師部隊が必死ででっち上げているに違い無い証拠によって責任を負わされるよりはずっとましだった。
 研究室に戻ったら、負わされる責任を「あなたのため」とかいうきれい事で飾って説明される。それを受け入れてしまったら――受け入れる以外の選択肢はない――どうなるのだろう。考えが及ばない。もう魔術に携われなくなるだろうか、刑務所のような所に入れられてしまうだろうか。
 すぐには行きたくない。別に逃げているわけではない。ただ、落ち着いてから。
 最初に思い立った行き先は自宅だった。裏道からやっと抜け出せて、表通りに出ても街中はくすんだ色をしている。曇っていて、雲が厚いからそう見えるのかもしれない。王宮を中央に据え、放射線状に伸びた数本の大通り。標識を見るに、自宅へはあと二本大通りを横断する必要がある。円状の通りが大通りを横断しているから、そこを通ればそんなに時間は掛からないはずだ。
 道行く人の足がいつもより速い気がする。なにかに追い立てられるみたいに、春先の急に寒い日みたいに、目的地だけに向かっている。店の呼び込む声もなんだか抑えめだ。明るい声のないエイローテだなんて。ひそひそ、いつもははばからない話し声が、抑えられて、小さくなってそこかしこから聞こえてくる。
 王宮に落ちた竜はもう処分されたのか? それが、消えてしまったらしいんだよ。
 議会も王宮も、はぐらかしてばっかり。
 魔導師様も、調査なんか二の次らしいじゃないか。
 まるで王宮だ。イオレは足を速めた。まるで王宮で、軍本部で、学校じゃないか。不気味でたまらない。この中に、遅からず自分の話題が加わるのだ。
 早く自宅に、人のいない場所に行きたい。
 自宅ならひとりでいられるはずだ。母に押しつけておきながら未だ同居している父はどういったつもりなのか、話さなければならないと分かってはいても自分から話を振ることが出来ずにいる。母がエイローテに来てからというもの、父と自宅に居合わせたことが無いようにも思う。そんなことさえ、母と父のせいにして。
 そうか、今帰っても自宅に父はいない。ひとりではいたい。でも、ひとりでいるところを軍の連中に見つかって連れて行かれるのは、怖い。心細いのには違いない。父がもしいたとして、かばってくれるとも思いたくないのに。
 自宅は駄目だ。だとするなら、行く先は師匠の事務所しか思いつかない。不在の間だけ借りるくらいは許してくれる、と思う。また師匠の面子を潰してしまうだろうか。でも、でも。
 事務所のドアに肩から体当たりして転がり込んだ。床の絨毯の、堅く毛羽立ったざらざらする冷たさが気持ちいい。息が切れている。埃が喉に張り付いて少しむせた。足が重たくひきつっていて、抱えていた上着が汗でじっとり重くて冷たい。いつの間にか走っていたみたいだ。背後にはまだ大通りの重苦しい喧噪がある。
 上げた頭の視界に、靴があった。黒く、てかてかとした幅広の靴は、こちらの世界では見ない。男ものだ。こちらへつま先が向いている。近づいてくるーー硝煙と血、ただの肉になっていく人間のからだが、何度も見たくらい光景が、眼の前に浮かんだ。これは、この男は。
 上半身を跳ね上げた。すぐ後ろでドアが閉まる。
「へえ、そっくりだ」
 ドアに手をついてこちらを見下ろす顔は母にうり二つだ。髪の長さまで同じかもしれない。細身だが太く骨張った首筋、肩、腕。母と同じ顔をした、母の片割れである男。母が逃げ続けている男。
 なんで、どうしてこんなところに。
「朔(さく)」
 朱伊皐月の声だ。母の片割れの男の奥に、声の主がいる。声は親しげだ。
「ずらかろう。それには散歩紐が付いてる」
「散歩紐? ああ、飼い主がいるってこと」
 見つかると面倒になるぞ。朱伊と朔のやりとりは仲間じみていて息が合っている。
 やっぱり、朱伊が白伊と切れているだなんて嘘だったじゃないか。母さんはこんな男に騙されて、なんて馬鹿な。
 ふうん。朔の相づちには含みがある。彼は、ちらり、横目にこちらを見て背を向けた。
「まあ、いいよ。君が手に入るから」
 朱伊は朔が伸ばした腕を避けつつ、裏口へ歩いていく。遠のいて気がついた。においだ。朔からは他の白伊と同じにおいがする。幼い頃追われて危機に陥る度嗅いでいたにおい。決まって誰かが死ぬときのにおい。
 がたん、奥からした音は朱伊と朔が出て行った音だと思った。だが、寄りかかっていたドアの外から押される感覚と一緒に聞こえたそれは、事務所に人が入ってきた音だった。ぞろぞろ、奥から青い上着の人間が迫ってくる。その中に、紅い上着の師匠、翼と暮葉の姿がある。