竜と世界と私

四章-三

「外まで私達を守れ。後は私がやる」
 ナディアの言い分はもっともだ。地下室であるここからでは聞こえないが、ジョンの部下が建物中を探しているに違い無い。その証拠に、階上に魔術の気配が数多くある。
 流風も桜花もメイズも異人だ。魔術への適正はきっと無い。そんな彼らが、魔術師相手に怪我人を抱えた女を守るだなんて。
「魔術師どもは黙らせる。しかし私達は無防備にもなる」
「魔術の発動を阻害する魔術を使います。集中力を使うので、周りに気をやれません」
 どういうことだ。尋ねるメイズへ答える。未発表の研究成果を使う。恐らくこの術式の存在を、頭の中を勝手に盗み見て知ったナディアに使うことを勝手に決められてしまったことに腹が立った。しかも相手はジョンの部下だ。ジョンに知られることは確実で、そうなればこの画期的な術式はこの手を離れてしまうだろう。穴を突かれて対策もされてしまう。使えるのはきっと今回だけだ。
 メイズを先頭に、桜花、颯を抱き上げたアレイシア、流風の並びで部屋を出る。腕の中の女性の重み、絶えず魔術粒子へ指示を飛ばし念じ、計算する。魔術粒子の物理的特性に働きかけ、活動を止めるという仕組みだ。仕組み上、指示する魔術粒子自体も活動を停止していく。だから止まっていない魔術粒子をかき集める魔術をいくつも同時に発動しつづける必要もあり、そもそも試作段階だから指示自体が複雑で、物理的特性に働きかけるための計算までいちいちしなければならない。ナディアのバックアップがなければ到底不可能だった。
 来た時とは別の道――メイズと桜花がやってきた反対側の道を進む桃色の後ろ姿に付いていく。それだけで精一杯だ。腕が今にもちぎれそうだった。
「頼みがある」
 そんな中、背後からの声がある。流風だ。松明の間隔は次第に広がっていく。合間にあった闇がどんどん大きくなり、闇の合間に灯りが揺らめく。桜花の先にいるメイズは闇の中で見えない。流風のひそひそ声は届いていないだろう。
 しかし返事はできない。計算を間違えて術式がいくつか駄目になり、その補填と再構築が間に合っていない。阻害魔術を発動し続けるには魔術粒子が不足し始めていた。
 颯――血が止まらない――を抱え直して、ナディア、声には出さず呼んだのに、竜はその途端バックアップを放り出した。吠える声と轟音、金属を弾く甲高い音、駆ける足音、金属の擦れる音と、数多の点と長い刃物の軌跡が光となって狭い廊下をはしった。
 何が起こっているのか分からない。足が止まった。目の前にあったはずの桃色の背中がいなくなっていた。先、ずっと先の方で金属のぶつかり合う音が響いてくる。からから、床に金属の粒が転がっている。
 頭を下へ押され、腰を折った。流風の手だ。頭を低く。彼は言って武器を確認する。いくつ持っているのか、黒く小さいそれには床に転がっているのと同じ金属粒が詰まっていた。彼は舌打ちする。
 再び点の光が走った。音が反響して耳が痛く、頭がくらくらする。
 ナディアが盾を造っているらしい。金属粒は音と一緒に飛んできているようだが、盾にぶつかって落ちていく。
 流風に腕を引かれて振り返った。背後、来た道は灯りが消えていて、真っ暗闇だ。腕を引いて駆けだした流風に向け、迫ってくる気配が、飛んでくる気配がある。魔術。しまった。阻害術式を手放してしまったことに今さら気がつく。間に合わない。足を止めた。前につんのめった背中を、腕を引いて、引きよせ、しゃがんで、引き、引き倒した。
 地面に仰向けで倒れた流風の上を、眼には見えない魔術が通り過ぎる。すぐ横を過ぎ去っていったそれを、アレイシアは眼で追った。眼には見えないが、物理的に近いほど魔術の構造は感知しやすい。そして驚いた。するはずだった反撃を放り出してしまった程に。
「やはり完全には再現できていないか?」
 声はジョンのものだ。闇の中から魔術の灯りで浮かび上がった、隣国形式の紅い上着。
「信じられない」
 思わず口走っていた。ジョン・カーター。隣国の魔導師のトップ。優秀だということは知っていた。外世界の技術と魔術の融合を図る研究の第一人者だ。論文は何本も読んだ。だが、ついさっき初めて発動させた――実験以外で――魔術を、魔術を阻害する魔術を解析し再現するだなんて。確かに完全ではない。それでも阻害効果はあるはずだ。
「面白い。実に興味深い術式だね。魔術粒子の物理的特性研究におけるひとつの研究成果というわけだ」
「光栄です」
 横に広い体つき、顔もまるまるとして、茶色い髪は脂ぎって層も薄く、額が頭頂ぎりぎりまで後退している男だ。男にしては甲高い声が狭い通路に響いて煩わしい。
 彼の物言いは早坂に似ているが、声音は穏やかに聞こえないこともない。ああ、いや、見るからに狸だ。ナディアと口先でやり合える。敵うはずもない、せめて騙されずにいよう。意を決し息を吐いた。立ち上がろうとする流風に首を振った。ジョンの後ろに控える魔術師が彼を狙っている。タイミングを与えないに越したことは無い。
「地上最後の天界認定魔導師ピア・スノウの助手。あの魔女の影にこれ程の魔術師が隠れていたとは」
 殺すには惜しい、そんなところだろうか。腕の中の颯が燃えるように熱い。背筋は冷や汗で凍りそうなのに。早くしなければ彼女は燃え尽きてしまう。
「その女は死ぬ。それが今、優秀な君の腕の中か、少し後の我々の足下か。決めるのは君だ」
「死にません」
 颯は死なせない。そう、今になって、今さらになって、決めた。ジョンの言う”優秀”が許せなかったからだ。それはピアにこそ相応しい、彼女の生き様に、出会ったとき見いだした”優秀”だけが、アレイシアにとっては全てだった。
「この二人を通して下さい。その代わりに優秀な私を差し出します。ナディアと一緒に」
 颯を助けるために今の自分が打てる手はこれしかない。生きていたって、竜に嫁いだこの身ではどうせもう元の生活に、ピアの、魔導師の助手に戻ることはできないのだ。
「そこをどいて、カレン!」
 桜花の緊迫した声が遙か後ろから響いてくる。カレン? 咄嗟に見た流風の顔は驚きに満ちていて、彼につられて見たジョンの顔は感心したふうだった。
 意識が後頭部から抜けていくような感覚、なぜだかさっきから一言も発さずにいるナディアに、引きずり出される感覚がある。