竜と世界と私

一章-三

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 アレイシアはあおい髪の男性と顔色の悪い女性を連れて事務所へ駆け戻り、無人の一階を通り過ぎて二階に上がった。この女性はあのしろい竜を召喚した。なんとしても確保しなければならない。
 二階に部屋は四つ。東の自室、奥にピアの自室、その向かいに客室。東の自室向かいの一室は浴室に改装中だ。二階も真暗いが、一筋、ドアから漏れる光がある。ピアの部屋だ。ノックをしようとして、ドアが奥に引かれた。急いでいただけに前のめりになっていた上半身が大きく揺らぐ。
「朱伊先生」
 ドアを開けたのは厚ぼったい眼鏡をかけ、白衣を着た朱伊だった。
東がピアの世話に人を呼ぶなんてことがあるなんて。私には一度だって頼まなかったくせに――悔しいわけでは決してないが、あまりにも唐突にむかついて部屋の中へ一歩踏み出す。踏み出した筈が、部屋を出ようとした朱伊に廊下へ押し出されていた。
「暮葉(くれは)、やっぱり」
 朱伊は血相を変えて、男性がおぶっていた女性の髪をかき上げる。道すがら聞いた名前、女性が朱伊 暮葉、男性が瑠璃 翼(るり たすく)から予想していた通り、暮葉は朱伊の知り合いだった様だ。朱伊は暮葉のすっかりしろくなってしまった顔を見るなり、客室へ担ぎ込んだ。
「やっぱりって」
「まるごと出したんだろ、落ちたのを受け止めようとして」
「見てたならなんでこんなところにいるわけ」
「知り合いと先に会った。そうしたらあっちも重体だった。渡した薬はもう無くした?」
「五年も前じゃもう使い切った」
「この、」
 暮葉をベットに寝かせてきぱきと状態を見ていきながら、朱伊と翼は険悪な会話を続けた。驚いたのは朱伊が嫌味と皮肉と当てこすりと、隠す気のない敵意を人に向けることがあるという事だ。彼とはエイローテに越してきてからの一ヶ月ほどの付き合いだが、普段は頭脳明晰で人当たりがよく温和。そういえば彼を前にした時の颯の毒舌ぶりもひどいものがあって、それにも驚いたものだった。
「アレイシアさん、すみません。見苦しいところをお見せしてしまって。この子は俺の妹で、あれは妹の彼氏だそうです」
 口喧嘩の途中で矛先がこちらに向いてきた。どきどきしながらそうなんですかと返す。疑問が山積みになってどこから聞いたものか見当がつかない。
「だから聞いてる!」
 一階のドアを勢いよく開けた音――蹴破ったらこんな音だろうか――と同時に、少女のけたたましい声が二階の端まで響いてきた。それを諫める声も、抑えているつもりだろうが十分響いている。声は環――イオレのものだ。一緒にいるのは会話の内容からして母親の颯だろう。親子の再会も険悪だったらしい。イオレはピアと一緒だったはずだが。
 ぱっ、言い合っていた二人が顔を見合わせ、動きが止まる。無言のまま二人は何かを押しつけ合い、翼が折れたみたいだった。彼はきつく朱伊を睨んで、部屋を出る。わけも分からず後を追うと、ヒステリックな言い合いが階段を上がって来きたところだった。翼と颯が二、三言葉を交わし、イオレが割り込もうとして、取り合って貰えない。颯は娘に何か言い含めてから翼と二人、客室へ向かう。取り残されたイオレが呟く。足止めってなにそれ。
「最低」
 忌々しく吐き捨てた声は客室へ向かう二人へ向けたものだ。二人は振り返りもせず客室の中へ消えていった。
「環、足止めって」
「あの人たち逃げるつもりだ」
「逃げる?」
「ここまで巻き込んでおいて、最低」
 足早に廊下を進む少女の前に立ちふさがる。両肩を掴んで、
「どういうことなの、教えて」
 これ以上は言わない決意を決めた眼に見つめられて、知らず知らず手が離れていた。あれだけ嫌っていても庇うのか。
 半開きだったドアを押すイオレの後を追ってピアの部屋に入る。
 ピアは東の手を借りて上半身を起き上がらせていた。顔は青ざめていたが、血色が戻り始めている様だった。暮葉よりはずっと顔色がいい。
 先生! イオレは感極まった声を出してベッドサイドに寄った。
 ベッドサイドで微動だにしていなかった東がはっとして振り返る。部屋に入ってきたのも気づいていなかったようだ。余裕のない表情を一瞬で隠して、言う。おかえり。
「放っていってしまってごめんなさい。様子はどう?」
「朱伊のお陰でだいぶいい」
「ちょっと、やめてよ。こんな深刻ぶって」
 ピアは笑ったが、声にはまだ力が無い。
「こんなんじゃ深刻ぶるわよ」
 彼女に合わせて笑った。ぎこちなくならないように、なるべく自然に。イオレがそれに倣う。
「そういえば、話が途中だったじゃない?」
 ピアの声は怒っている。そういえば任命式でイオレを呼び止め、話している途中に竜が落ちてきたのだった。彼女の長ったらしい説教が終わっているはずがない。イオレはぎこちない笑顔のまま固まったが、やはり助けることはできない。
 東、ちょっと。言って、同じく説教に巻き込まれまいとベッドサイドから離れた東を手招きする。
 上司の無事を知った途端にこんな話を切り出すのはなかなか気まずい。ピアの体調なんかどうでもいいのかと怒られそうだ。
 どう伝えたものか、言葉を選ぶ。あのしろい竜との因縁は知られたくない。冷静になってみれば、受け止めたのがあの竜でなくても、暮葉は十分怪しい。彼女も翼も、明らかにこの世界の外から来た“異人”だ。竜の召喚が可能な異人――あり得ない――が偶然墜落に居合わせて建物を庇った、だなんて。
「墜落した竜を受け止めた竜がいたんだけど、それを召喚した人を連れて来たの。朱伊先生の妹さんで、環は逃げるつもりだって、言ってて」
 イオレに聞こえるように話すのがはばかられて、ひそひそ声になる。
 暮葉は王宮を庇った。それはなぜなのか。そしてそれは、イオレが言おうとしない颯達の企みによるものなのか。その『何か』を聞き出すというのは、実のところ言い訳だ。本当に聞き出したい事は別にある。だがそれは、東にもピアにも知られたくない。
「どうする」
 東もひそひそ声だ。ピアとイオレはこちらの会話に気付かず、説教が続いている。良かった、他意があることはばれていない。彼はそういったことにやけに鼻がきく。
「逃げられる前に聞き出す」
「ねえ、何? さっきからこそこそして」
 不意にピアの声が飛んできて、二人してどきりとした。慎重にな。東が囁く。
「いや、はぐれたイオレを探さなかったのかって怒られてた」
 ふうん。ピアの声に探る響きがある。
「ちょっと、水を取ってくる」
 東に相手を押しつけて、アレイシアはそそくさと部屋を出た。