竜と世界と私
一章-四
一階は真暗い。洗い場の水瓶に両手を付いて俯く。
ショックだった。颯を信頼していたし、兄弟弟子のイオレ――環の事はよく知っているつもりでいた。まさか企みに利用されようとしていたなんて。それを知っていて環も黙っていたなんて。一概に名前で判断することはできないが、素振りからして暮葉と翼が”異人”――この限られた世界の外から来た人間なのは間違いない。そして恐らくは朱伊と、颯、環も。
あの竜だ。あの、しろい、王宮で下敷きになっていた、暮葉が召喚した竜。
考えが飛躍しすぎている。でも、そもそも、異人が魔術の中でも特殊な召喚をするなんてことも突飛だ。外の世界に竜は存在し得ないのだから、異人がそれを召喚することは不可能なはずだ。
ピアを利用するつもりだったことに怒りもある。やはり墜落は颯の、彼女らによって行われ、その目的はあの島からエイローテにピアを連れてくることだったのか。母娘の異例の昇進と、事務所の裏に颯の知り合いが住んでいるという偶然はやはり彼女らに画策されていたことなのか。そしてエイローテでピアに何をさせようとしているのか。
聞き出すべきだ。私が聞き出さなければならない。
否、私が、聞きたい。
決心を決めて、息を吐いた。腹から、肺まで全部吐き出して、からだじゅうの空気を入れ換えるイメージ。空気と一緒にからだじゅうに力が行き渡っていくイメージを思い浮かべる。
短く息を吐いて、肩から力を抜く。体を軽くほぐしながら目を閉じる。思い浮かべる。客室の窓とドア、鍵。壁にも穴を開ければ出られるだろう。全部を塞ぐ方法。出られなくする方法。ひとまず窓の鍵を固めて、客室の全ての面を固くする。穴を開けられないように。魔術がその働きを始めたことを肌に感じて、眼を開けた。ピアがそれに応えて建物じゅうの警備魔術を立ち上げ、補強を始めた様だ。あからさますぎてイオレには筒抜けだろう。それで弟子の反応を見て楽しんでいるのかもしれない。音もなく準備が進む魔術の気配は客室で気付く者などいない筈だ。唯一気付けそうな暮葉はそれどころではない。
水瓶にピッチャーを沈めて中を満たし、トレイに載せる。その隣にコップを適当な数積み上げ、階段を上がった。
階段を上がりきったところで、客室から颯が顔を覗かせていた。
「窓が開かないみたいなんだ」
「すみません、建て付けが悪いんです。直す暇もとれないもので」
ピアにも聞こえているらしい。彼女が窓の警備魔術に細工を始める。これでは開いた途端客室が吹っ飛んで、建物自体も崩れそうだ。面白がって。もし吹き飛んでも建物が崩れないよう魔術を仕込みながら、
「水を持ってきました。すっかり遅くなってしまってすみません」
客室に入る。中はすっかり静まっていた。肌がぴりぴりする。トレイを置いて、窓をがたがた揺する。ピアがけらけら笑っているのが眼に見えるようだ。こんな回りくどいことするから。せせら笑う声まで聞こえてきそうだった。彼女なら迷わず客室を吹き飛ばし、颯達を追い回すのを楽しんでからありとあらゆる魔術で問い詰めて洗いざらい吐かせるだろう。もしくはあからさまにイオレを人質にして脅迫するかもしれない。
「やっぱり開きませんね。廊下の窓を開けますから、ドアを開けておいてください。それで空気も入れ換えられると思います」
「ああ、いや、そこまでしなくても」
「だいぶ落ち着いてきたから、妹を診療所に移します。迷惑でしょう」
「そんな、迷惑なんて。うちに連れてきたのは私ですから。目を覚まされるまではここにいらしてください」
いや、でも。食い下がる朱伊にやんわり善意を押しつける。朱伊に気をとられていると、視界の端で翼が動いた。片手を背後に回す、不審な動きだ。反射的に魔術を飛ばしたところで、背に冷たいものが触れる。
「アレイシア、手荒な真似はしたくない」
颯だ。剣先が背から心臓を狙っている。飛ばした魔術をすんでの所で止めた。
「これは手荒の内に入らないのかしら」
「訂正する。したくなかった」
翼が背後に回していた手を出し、空いた手を上げて肩を竦める。颯が背後でため息をついた。本当に手荒なことをするつもりはなかったのだろう。ただしびれを切らした彼が手を出す前に、彼女がやったのだ。
「忠告。レイはあんたが思っているよりずっと危ない人間です」
「レイさん、やめて!」
いつの間にか客間のドア口にピアがにやにやして寄りかかっている。中に飛び込んできたイオレは血相を変え涙ぐんでいる。それでも暮葉へ飛ばしていた魔術は止めなかった。彼女の首に、横一文字の血筋が流れる。
「皮一枚遅かったみたいね。ごめんなさい」
イオレに止められた風を装って肩を竦める。イオレの責め立てる視線が痛いが、暮葉の首を落とすつもりは毛頭無い。ただ、颯がいつでもこの心臓を貫けるのと同じように、彼女の首を落とせることを知らしめる必要があった。
朱伊が傷口を素早く確認し、翼は信じられない眼をこちらに向ける。剣先が背に食い込む。痛みが走った。やはり彼女達は魔術の気配を感じ取ることができない。しめた。痛みよりも、この状況で優位に立って顔が緩まないよう平静を装う。
「ほら、物騒でしょ。窓を開けたらこの部屋ごと吹っ飛ばそうとしてたんだから」
「それは私じゃなくて導師様です」
呆れた。部下が背から血を滴らせているのに冗談めいた口を閉じるつもりがない。
「彼女は心臓を串刺しにされる前にあなたの首を飛ばせるけど?」
「試してみよう」
颯が肩を掴む。その手にも剣先にも震えはない。むしろ水を得た魚のように力を漲らせている。
「お互い譲歩しませんか。私は質問に答えて頂ければ誰にも手出ししません」
ぴくり、肩を掴む颯の手が動く。いいだろう。言って、掴む力を強める。
「私達を詮索するな。これからここを出させてもらう」
思った通りだ。緩みそうになる口元を引き締める。
「わかりました。追わないと約束します」
未だにやついているピア横目で睨んだ。彼女ならこれを守らない。約束したのはレイだから、とでもうそぶくだろう。
再び魔術を組み立てた。普通、その場にいる魔術師には命令式が筒抜けになるためダミーを用意したり命令式を隠す魔術を別に用意したりするものだが、どうせわからないのだから必要もない。さっきと同じ、細く眼に見えない刃の標的を、颯に設定する。
イオレが息を呑む。しかし何も言ってこない。罪悪感か、きっと発動させないという信頼か。どちらだろう。考えながら、言葉を選ぶ。
「あの竜を、彼女が召喚できる理由を教えて下さい」
颯の剣は未だ退かない。颯と朱伊と翼、三人が無言のまま眼と顔でやりとりするのを見る限り、翼は真実を、朱伊は嘘を言わせようとしているようだ。颯はどちらを選ぶのか。背を押すために魔術を発射する。どうせイオレが庇うだろう。
不意にあのにおいが鼻を掠めた。そんなはずはない。そんなはずはないのに、室内を見回して、見つける。
朱伊の背後に揺らめいている影がある。影は直線的で鋭利なかたちを作っていく。瓶に水が満たされていくように、しろく、その姿を現していく。
あの竜だ。竜がこちらを見ている。私をしっかりその眼で捉えて、見つめている。
その獣の眼が記憶の中のものと重なった。幼い頃のものだ。眩しい朝日と、ぼんやりした大きなくろい染み。さあ、迎えに来たぞ。獣がそう言っているのが聞こえる。
剣先が背に深く食い込んでいるらしい。足が滑って力が入らない。血が足下に溜まっているのだ。だがそれは今問題ではない。今ここにあの竜がいることが問題なのだ。ここに、私を見つけた、あの竜がいるという事が。
逃げなければ。一刻も早くあの竜の眼の届かないところに走り出さなければならないのに。体中が凍ったみたいに固くなって、後ずさるのでさえ精一杯なのだ。標的を見失いさまよっていた薄い刃に指示する。逃げ出す道はひとつだ。
「待って、レイ、待って!」
ピアが金切り声を上げている。体が大きく揺らいだ。くるり、回った視界が捉えたのは灯りにきらめく金色の髪だ。東の顔はきつく固まっている。甲高い獣の声が聞こえて、東の顔が驚愕に塗り替えられ、のしかかっていた体が浮く。その体を押しのけて、半身を上げる。竜の眼はまだこちらを捉えている。竜はこちらを見下ろし笑った。せせら笑いながら、色を薄めていく。
「彼女が起きないのはまだ召喚し続けてるからよ。このままあの竜に命をくれてやるつもり!?」
視界が白くぼやける。ピアの一層鋭い声が遠のいていった。
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