竜と世界と私

一章-五

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 鋭利で直線的なかたちをしているのに、触れるとしなやかで、ずっと触っていたくなった。ざらついているのに肌に刺さる感覚はない。このこそばゆさが、手のひらにずっと残っている。また触りたい。もっと触っていたい。こんなに切望していながら、目の前にすると逃げ出したいほど怖くてたまらないなんて。それならどうすればいいのか。どうすれば。どうすれば。
 頭の中で同じ疑問がぐるぐる回っていることに気がついて、アレイシアは眠っていたことに気がついた。手に触れているものがある。人肌でざらついたそれは、
「ああ、起きた」
 東は何事もなかったように手を離す。
「は、なんで?」
 いったいなにがどうしたら東に手を握られて看病なんかされることになるのか。起き上がろうとして、俯せに寝ていたことに気がついた。
「私どれ位寝てたの?」
 背中がじりじり熱く、痛くて起き上がれない。見慣れない部屋だ。引っ越しの時に一度だけ見た、東の部屋。ベッドサイドに一本の空瓶が立っている。五年前、彼に贈った。ピアの目を盗んで、彼女だけが知る魔法薬を見よう見まねで調合した。それが入っていた瓶。天界人が地上で生きていくために不可欠な薬だ。あの時は彼の命さえ独占したかった。その証をまだ持っているなんて。
「二、三時間。悪い、下まで連れて行く時間が惜しかったから」
 アレイシアは自室を持っていない。普段は一階のソファーか、地下室で寝ている。住み込みの助手はどこもそんなものだ。
 東が瓶を移動させる。こちらの視界の外へ。見ていることに気がついたらしい。持ち上げたとき、瓶の底にひびが入っているのが見えた。彼が付き合っていることをピアに伝えられなくて喧嘩したときに、この瓶を彼に向かって投げつけた。彼の顔に当たったけれど、丈夫な彼には痣の一つもできなくて、傷を負ったのは瓶だけだった。それにむかついて、失望して、彼とはそれきりだ。それから四年ずっと、ただの同僚であろうとしている。
「あの後どうなった?」
 二、三時間。一晩経っていなかっただけ良しとすべきだろうか。とにかく、暮葉を逃がすのだけはどうしても避けたい。今となっては、なんとしてでも。
「竜は消えた。今、ピアが話してる」
 東の手が離したばかりの手に触れる。半ば反射的に手を引っ込めるが、恐る恐る触れてきたくせに強く握られて振り払えない。
「あの竜は婚約者だろう」
 ぐ、指先を握る彼の手に力が入る。こっちは震えるのを誤魔化そうと必死なのに。
「なんで」
「アレイシアらしくなかった」
 竜から逃げてきたなんてピアにも話していないのに。無理矢理笑ってみせた東を見るに、二人ともきっとそんなこととっくに分かっていたのだ。ただ、こうして竜に見つかるなんて思ってみなかっただけで。
 隠していたのに、見抜かれていたなんて。肩から力が抜ける。不思議と悪い気はしなかった。


***
「とりあえず、死人が出る前に話しましょ」
 暮葉がはっと眼を覚ましたのを見て、こちらが何をするより先に朱伊に押しのけられる。手持ちぶさたに部屋を見回し、ピアは宣言した。
「レイ、レイ!」
 自分で血だまりに押し倒しておきながら、東は真っ青になって血だらけのアレイシアを揺すっている。
「止血。失血死するわよ」
 平静を装って彼に声を投げた。もはや意地だ。アレイシアが動揺して魔術を手放したとき、どうしてそれをもっと早く自分が横取りしておかなかったのか。そんな後悔が胸のあたりでくすぶっていた。
 アレイシアは自分の首を飛ばそうとした。
 一度手放して、次に再び刃の命令式を握ったとき、彼女がその刃の標的にしたのは彼女自身だった。それがその場にいた魔術師――ピアと東とイオレにはわかった。アレイシアらしくない、命令式を隠しもせず設定したそれが、衝動的なものであることもわかった。でもそれがわかって、彼女を止めるのに行動を起こしたのは東だけだった。
 イオレは部屋に入ってきた位置のまま、未だ呆然と立ち尽くしている。アレイシアが押し倒されたのに巻き込まれた颯がそんな娘に気がついて立ち上がる。
「まず今何が起っていたのか教えてください」
 各々が沈黙する中言ったのはあおい髪の男だった。イオレに聞いた話では翼という名前だったか。彼の声は強ばっている。
「ええ喜んで。その前に彼女の手当をしてもいい?」
 彼は頷いた。
 アレイシアの傷は深いわけではなかった。ただ彼女が動いたせいでひどく抉れている。東が傷口を押さえているから出血はたいぶ落ち着いているようだ。止血と言ったのに、彼は魔術も使わずにいる。
「変わって」
 言ったのは東のほうだ。体をずらして、傷口を押さえる位置を譲る。傷口を押さえるのを変わると、彼は小さく一言謝った。魔術を使う余裕のない天界人なんかこの世に存在するのか。
水に関する魔術は専売特許だ。止血の命令式を組み立てて実行する。
「いい?」
 魔術は命令し続ける間しか効果がない。急ごしらえに作った命令式はこの手が触れているものを標的にしている。東に準備ができたか聞くと、彼は息を吐いて頷く。傷口を押さえる手を魔術ごと引き渡して、部屋を移るよう言った。
「彼女を別の部屋に移すけど構わないでしょ」
 颯に確認を取る。彼女が頷くのを見もせず、東はアレイシアを抱え、イオレと颯を押しのけ部屋を出て行った。
 血だまりの血を魔術で吸い上げる。空中にそれをひとまとめにして、水のはいったピッチャーに投げ入れた。
「彼女はアレイシア。私の助手。見てわかった通り優秀な魔術師。いつもはあんな事する子じゃないんだけど」
 翼に向かって話す。知りたいと言ったのは彼だ。
「あなたの名前は? どう呼んだらいいかわからない」
 彼は意外と冷静だった。さっきの間に気を持ちなおしたのか。どうせ知っているだろうと自己紹介を省いたのに。
「ピア・スノウ。自分で言うのもなんだけどこの国きっての魔導師よ。イオレの師匠もやってた。で、さっきレイを持って出ていったのが東 天鈴。私のもう一人の助手」
 ありがとうございます、言って翼が頷く。
「レイはあの竜から逃げようとした」
 アレイシアとこそこそ話していた東を問いただし聞き出した話からすると、王宮に墜落した竜を受け止めた、暮葉の召喚した竜を彼女は見た。そしてその竜のために暮葉を連れてきた。それなのに竜を目の前にして、怯え我を見失い自殺までしようとした。それはつまり、彼女があの竜と因縁を持っているということだ。心当たりはあった。だが、そうではなくてほしいと思っていたのに、こんな形で裏付けられてしまうなんて。
「あの竜って、暮葉が召喚するあいつのことですか」
「そう。さあ、レイの質問に答えてちょうだい。なぜ暮葉さんは、あの竜を召喚できるのか」
 大体の場合、召喚する竜は一人に対して固定だ。この世界生まれでない暮葉が召喚できる事自体が『大体の場合』から大きく外れているから確実にそうだとは言えなかったのだが、翼の言葉で確実になる。暮葉はいつもあの竜を、アレイシアが逃げている竜を召喚する。
「それは、私達も知らない」
「知らない?」
 思わず聞き返した。普通、異人に召喚はできない。当然だ。なぜなら、外の世界に竜が存在し得ない。それなのにできる。その理由を、知らないだなんて、そんなわけがない。召喚は通常の魔術とは根底が異なる、非常に難解で特殊な魔術だ。なんの根拠も無く可能なものではないのだ。
「そうやって、しらばっくれるわけ」
 それならこっちにも手がある。命令式を組み上げ、
「それを知りたくて、こっちに来たんです。だから止めて下さい」
 途中でイオレが声を上げた。そうでしょ? 彼女が嫌悪を露わに母親に問い、颯は娘へ頷いて見せる。
「あの竜は特別なんですか」
 聞いてきたのは朱伊だった。仲間達に睨まれながら、彼はこちらをじっと見て譲らない。
「少なくともレイにとっては」
 彼らにとってあの竜がどうだろうが、知ったことではない。こちらにとって大事なのは、アレイシアを脅かす竜を召喚する人間が異人だということだ。
「それは、どういう意味だ」
 凄む颯の眼は暗い。床に転がったままの血に濡れた剣で今にも胸を刺されそうだ。
「そっくりそのまま返す。それは、どういう意味?」
 この女は、職権を濫用してまで娘を心配していたくせに。いざ娘を前にしているにも関わらず娘より竜を召喚する女性の方が大事と見える。
 押し黙った颯を放って、翼に向き直った。
「外の世界から来たあなた達にもわかりやすく言うと、この世界には好みの女性をお嫁さんにする竜がいる」
「外の世界って?」