竜と世界と私

一章-八

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 二階から階段を降りていると、下が未だ真っ暗なのが見えた。もう夜のはずだが、誰かしら起きていると思っていただけに、颯は肩を落とした。不用心だ。見ず知らずの他人を客室に泊めて、助手は負傷、手当に人も割いていていろいろと手薄だと、あの魔導師は分かっているだろうに。話をする予定を変更して、水を取りにきたことにする。階段を降りきって角を曲がったところで、人影があることに気がついた。一番大きく、一番物が積み重なっている机に灯りがあり、小柄な人影がうずたかい物の山に埋もれるようにして、いる。
「何か用」
 声はピアのものだ。ぶっきらぼうに投げてよこしただけの声には事務的な響きがある。
「いたのか」
「私が寝るわけにいかないでしょ、今夜は」
 そうだな。颯は肩を竦める。ほらやっぱりわかっていた。
「仕事してみたんだけど、手が着かなかったの。あんたも待ってたしね。何か飲む?」
 物――近づいて見えた紙束の塔の陰から、ピアがひょいと顔を覗かせた。空のカップを持ってキッチンへ歩いて行くのを目で追う。
「いや、いい。私も話がある」
「私の話は長くなるわよ。私は飲むけど」
 わざわざ湯を沸かし始めたらしい。やかんを熱する火がちらちらピアの顔を照らしている。
「私は長くするつもりが無い。言わないと分かってもらえないのかな」
 ごそごそ茶葉を探し始めたピアに言葉を投げる。机とキッチンの小さな灯りの間でまた陰に入り込んだピアは小柄なせいもあって姿が見えない。こんな事をして時間稼ぎをしても無駄だ。こっちが早く話を切り上げたいのを逆手に、時間を引き延ばして話の主導権を握るつもりだろう。
「私の大切な助手があんたに殺されそうになったばかりだから。忠告したのに竜を近づけたりして、あんたが何考えてるのかわからないわ」
 ピアは冷静になってもやはり怒っているらしい。いつでも事態を掌握しているピアからしたら、今日のあれやこれは面白くないだろう。
「言い訳を、させてあげてもいいけど?」
「話してやらないこともない。が、私が今したいのはあの竜の話だ」
 訳を私の口から聞きたがるとは。驚きだ。翼の代わりにアレイシアに刃物を向けたとき、今後ピアとはやりづらくなるだろうと腹をくくった。彼女は人に対して怒ったりしない。ただ見捨て、言い訳など聞いたりしない。もしかしたら、友情は口先だけものではなかったのかもしれない。
「でも私の話が先。ああ、あったあった」
 ピアが陰から顔を見せた。茶葉の缶を振って、首を傾げる。これしかなかったっけ。呟く様子はなにか企んでいるように見えない。いや、騙されるな。これがこの女の手口なのだ。
「あんたもよく私に顔を見せられたものね」
 ピアは手持ちぶさたげに壁に寄りかかる。茶葉の缶を弄びながら、
「暮葉って娘がそんなに大事? 朱伊さんの妹でももう別れたんでしょ」
 横目にこちらを見る。どこから聞き出すか様子を見ているのだろう。
「朱伊は関係ない。弟の彼女だからだ」
「弟? 翼君はあんたの弟なの」
 結局あっちのペースに乗せられている。全て話すつもりは毛頭ない。ピアを満足させてかつ開示する情報をいかに少なくできるか考えながら、
「厳密には娘の父親の弟。まあ実の弟も同然だが」
 ふーん、ピアは興味なさげに眼を逸らす。湯はまだ沸かない。
「じゃあ彼はイオレの叔父さんにあたるわけ。娘と旦那と弟、ね。家族を巻き込んでこの世界まで逃げてきたわけだ」
「まあ、そうだ」
 暮葉と翼は今日合流予定で、この世界の説明もその時にする予定だったから、外から来たとばれるのは当然だろう。その二人と家族だというのはつまりそういうことだ。この数年間、こちらの人間を装っていた苦労が水の泡だ。
 異人は天界人ほど差別はされない。しかし、社会生活には不利だ。王宮直属になったのを機に、娘の名前を変えたのも異人では魔導師になれないからだ。
「異人さんならあれだけ殺気だって当然ね。そこは理解してあげる。でもなぜ逃げようとしたの?」
 ピアに近づいたのはこちらからだ。こちらに仲間が揃って、偶然にもあらかじめ近しくなっていた有力者の家で保護されていた。偶然にも予定が繰り上がって喜びこそすれ、逃げるなどと考えるはずもないと捉えるのは当然だろう。だが、
「暮葉は私が最も大切に守るべき存在だ。お前たちに会わせることは計画になかった」
 守るべきものは危険から可能な限り遠ざける。だから暮葉がこの世界に入るのは根回しがすみ準備の整ったこの時期にした。ピアの力を借りることは計画の根幹にあるが、それは間接的なもののはずだった。
「それって娘よりも?」
 答えに詰まる。そうだ。イオレより――あの子よりも暮葉を大切にすべきなのだ。そう言い聞かせて今日まできた。ただ、それを口に出そうとしてもできなかった。
「環がうちにいた頃、家族のことは絶対に話そうとしなかったわ。でもね、一度だけ、話してくれたことがあったの。うちを出て行く前の日だった」
 ピアは弄んでいる缶をぼんやり見つめている。缶など見ていない。弟子のことを思い出している。
「父親とここまで来たけど、母親にもう一度会いたいって。でも無理だろうって。お母さんを見捨てたのは私のせいだからって」
 違う。思わず声が出た。違う。あの子は見捨ててなどいない。私が見捨てたのだ。娘のためなどと言って、父親に押しつけて別れて、世界の外まで追いやった。
「あの子を大切にして。弟の彼女よりも。そうするなら、協力してあげてもいい」
 イオレはピアの唯一の弟子だという。ピアのほうがよほど、母親らしいではないか。それが悔しくて、颯はきつく拳を握った。悔しいと思う、今更母親面をするその身勝手さが嫌になる。
「助かる」
 私よりも、お前の方が大切にしたらどうだ――喉まで出かかって、必死でとどめた。八つ当たりの上に僻みまで。かろうじて発した返事の素っ気なさにピアは不満げだ。
「イオレが軍の連中とつるんでるのは知ってる?」
「そうらしい」
 つるんでいるのは知っているが、軍の中でもよく知らない連中とだ。魔術師部隊が内々に援助していたらしい。魔術に疎い颯には近づきにくく、取り入っている幹部も魔術を重要視しない連中ばかりだった。
「あんたの差し金じゃないのね」
「調べているところだ。あの連中がなかなか捕まらない」
 王宮魔導師を軍が抱き込もうとするのはよくあることらしいが、任命式の様子ではやはりその逆のようだった。軍お抱えの魔術師が魔導師になったのだ。議会と王宮が水面下で対立している状況からすれば妙な話で、議会が王宮魔導師に匹敵する魔術師をみすみす王宮に渡すはずがない。王宮を探るために送り込んだと考えるのが妥当だ。そしてそれを利用して軍人の母親が娘を出世させたと考えるのも妥当だろう。
「私を信用させてみたらどうなの」
 イオレに免じて特別にチャンスをくれるらしい。いや、これもあの子のためか。
「わかった、調べる」
 娘の立場に対して調べが甘かったのは事実だ。手段と、つての選り好みをしていたわけではないが、どうしても頼りたくないつてを避けていた。それしか娘に辿り着くつてがないにも関わらず。そろそろ腹を決めるべきだろう。
「で、竜の話だっけ?」
 湯が沸いた。ピアが茶を淹れ始める。
「直談判にする」
 朱伊と翼は時間を掛けて訓練することを支持した。こと暮葉のこととなると翼も朱伊の肩を持つのだからたまったものではない。それを説得するのに骨が折れたが、この選択は間違っていない。暮葉はそんなに頭が良くないから――そこが可愛いのだが――訓練にどれだけ時間がかかるのか見当もつかない。そんな時間はない。追手に見つかる前にあの竜をどうにかする必要がある。
「危険なのは言わなくても分かってるでしょ。世界を跨いでまでして追っ手も振り切れないのね」
 こちらが切羽詰まっているのは理解するが、この無能さは理解しがたいらしい。呆れるのを通り越して軽蔑めいた眼を、ピアが向けてくる。追っ手がいるのもお見通しというわけだ。
「振り切れたのかまだ確信が持てていない。それまでは最悪の事態を想定して行動すべきだろう?」
 別に彼女の信頼が欲しいわけではない。ただ無能だと決めつけられるのが癪なだけだ。颯は言い返してから自分自身に言い訳する。
「まあいいわ。時間がないのは私も同じだし、かえってちょうど良かった」
 再び壁に寄りかかって、ピアはカップに口をつける。むっとしたが言い返さないでおく。重要なのは、
「時間がない?」
「竜の墜落。標的が私かレイなら原因と犯人を見つけなきゃ」
 狙われているのはピアも同じかもしれないということか。先月と今日、両方で竜の下敷きにされそうになったのはピアとアレイシアの二人だけだった。
「あの竜と早く話したいのは私も同じってこと。竜のことは竜に聞くのが一番手っ取り早くて確実だからね」
 ”不老不死の魔女”にも聞かなければわからないことがあるのか。それともそれだけ切羽詰まっているのか。颯の知るピア・スノウという魔導師はそのどちらにもあてはまらないように思えた。何か企んでいるように思えてならないが、利害は一致している。ここはそういうことにしておくのが得策だろう。何を企んでいるのかはこれから探ればいい。
「私は娘の背後関係を探って知らせる。お前は私たちをあの竜に会わせる。これでいいか?」
 ピアは満足げにカップを掲げた。
「じゃあ、そういうことで」