竜と世界と私

一章-一

 鋭利で直線的なかたちをしているのに、触れるとしなやかで、ずっと触っていたくなった。ざらついているのに肌に刺さる感覚はない。このこそばゆさが、手のひらにずっと残っている。また触りたい。もっと触っていたい。
 あの竜に初めて出会ったのは十二歳の誕生日だった。ちょうど一番上の姉が竜に嫁いでいった、それを見た次の日。眠れなくて朝方になぜだが外に出た。快晴だった。しろく眩しい朝日を背にして竜がじっと座っていた。まくろい肌の表面が朝日を反射して輝いていた。輪郭のぼやけた、影のような染みのような存在がアレイシアを見て微笑んだ。その眼はじっとアレイシアを見つめていた。恐ろしい、と思った。でもそれは恐怖ではなかった。自分が目にするには尊すぎるものを見てしまったように感じていた。手を伸ばしたことは、かたい手触りを感じて気がついた。手のひらがじんわり熱を持つ。手を動かすと、竜は身を引いた。追うこともできないまま、竜がその身を朝日の中へ溶かしていくさまを見ていた。ほんの小さな、一点の染みが消えて無くなってしまうまで。
 アレイシアには魔術が残された。竜が置き土産に幼い少女の中に残していった、魔術に必要なあらゆるものは、未だこの身に宿っている。
 取り返されるのを待つか、自ら返すか。
 右の手のひらを握ったり開いたりしながら、アレイシアはそんなことを思い出していた。この手のひらは十数年前にあの竜に触れた。あの感覚も、未だこの手のひらに宿っている。
「大丈夫ですか」
 押し殺した声は向かいに座る翼だ。ごとごと、揺れる馬車の荷台で、彼の肩には恋人である暮葉の頭が寄りかかっている。荷台にはこの三人だけだった。
「例えば?」
 聞き返されるのは意外だったらしい。自分でも普段とは違うことはわかっていた。だから、違うことを言ってみたくなったのだ。
「東さんのこととか」
 東とは結局、そういう関係にはなれない運命なんだと思う。この数週間はお互いに楽しかった、が、彼がピアに忠実なのは変わりようが無かった。
「事務所にいるって言って聞かなかったのは東だもの。あいつにとって私はその程度の存在だったってこと」
 東はピアを追うことに反対した。ピアが必ず戻ってくると信じているからだ。アレイシアの身を案じたのはついででしかない。
「朱伊先生を置いてきたことは?」
「別に、あいつの許可は必要ありません」
「それじゃあ、話してないの」
 翼は押し黙った。保護者の許可が必要な子ども扱いをしていると捉えられるのは心外だ。
「暮葉さんを誘拐しただなんて後で言われたくないってこと。その時はちゃんと説明してくれる?」
 彼はばつが悪そうに頷く。過保護な扱いを長いことされてきたのだろう。朱伊と颯の二人に対する接し方を見ていれば分かる。
「イオレは捕まらなかったんですね」
「研究室には行ってみたんだけどね。探すには時間がなかったから」
 ピアが魔術師団と事務所を去ってから、東と翼が戻るのを待って彼女を追いかける面子を決めた。それから出発するまで――この間に翼が朱伊に話を通しているのだと思っていたが――アレイシアはイオレに協力を請いに行ったが、研究室には人一人おらず、心当たりをしらみつぶしに探すような時間も無かったため、この三人だけで出発することになったのだった。
「兄に頼もうとしたんですけど・・・・・・すみません。見つけられなくて」
「お兄さんって、環の父親の?」
 ええ、まあ。翼の頷き方は不服そのものだ。兄弟仲は険悪らしい。その兄に頼ろうとしてくれたことに免じていつもなら追及しないところだが、今はいつもとは違う。
「ずっと不思議だったんだけど、お兄さんとは別行動なの? 大尉もこっちに来てまだ数年だしお兄さんを頼って来たんじゃない?」
 そもそも颯を筆頭として、名前さえ口にしようとしない。話に出てくるときの呼び名はいつだって“イオレの父親”だ。ピアに聞いた話では世界を渡ってきてもなお追っ手がかかっているらしいではないか。それなのに血縁者で一人だけのけ者にしているように見える。
「こっちに来るときに、兄は颯とは会わないことを条件に出したんです。その時はまだ、颯も朱伊と付き合ってたし、こうなるとは思ってもみなかったので」
 ところがこっちに来てみれば、朱伊と颯は会ってもいないその男のせいで別れることになり、振り切ってくるはずだった追っ手は振り切れなかった。
「会わないことにしたのに、娘は母親の姓になっても父親と住んでるじゃない。その繋がりで結局会うことにはなってたんじゃない」
 颯がそこを考えていなかったとは意外だった。用意周到だと思っていたが、詰めが甘いとは。
「兄にも新しい恋人がいるから、イオレを厄介払いしたかったに決まってる。颯じゃなくたってあいつを頼ろうとはしません」
 ついでに感情を切り離して考えることもできないとは。颯への評価がまるで変わってしまった。なるほど、普段は冷徹な女を装っているわけだ。
「大体はわかったわ。ありがとう。それじゃあ、翼君がこれから頑張っていかなきゃね」
 むきになって颯を擁護する翼を無難になだめる。もしかしたら、彼が兄を嫌う理由は颯にあるのかもしれない。
 そのつもりだと言わんばかりに翼が身を乗り出したせいで、肩に寄りかかっていた暮葉の頭がずり落ちる。すっとんきょうな声を上げて彼女が眼を覚ます。
 なになに。びっくりする彼女を翼が落ち着かせるのを横目に、アレイシアは地図に目を落とした。
 この国が王国制になったのはこの数十年のことだ。現在大陸は大きく二分されているが、それはこの国が小国を次々吸収していったことによる。そのせいで数年前まで国境は不明瞭だった。小国をまとめ上げた王国が大陸を全て我が物にするのではないかと、隣国が大きな自衛に出た、つまりは侵攻があった。アレイシアの故郷も元は小さな国のまた小さな村だが、王国に吸収されたと思ったらいつの間にか隣国の領土に含まれていた。
 ピア達の目的地はそのあたりだと考えている。アレイシアの故郷。彼女が竜と共存している集落の話を信じているからだ。あそこは所属がどの国だろうがいつまでも同じことを繰り返すだろう。女児を育てて竜に差し出す。あの忌まわしい習わしを。
「ピア達の目的地は恐らくこの辺り。隣国の領地内だし、ここまで行くことは考えてない。今のところはね」
 いつの間にか地図を覗き込んでいた二人に、地図の一点を指して説明する。里帰りは本当に奥の手だ。
「だから、国境を超える前に追いついて説得するつもり」
 かつて東の激戦区と呼ばれた地域を抜ける前に会うことができるかどうか。アレイシアはこの無茶に自身の短い未来をもう賭けてしまった。
「追いつけますか」
「やってできないことなんてない。でしょ」
 馬車が急停車する。幌越しに松明の明かりと人影が見え隠れしている。荷物の向こうで御者の狼狽した話声が聞こえた。
 翼がとっさに暮葉の口を手で塞ぐ。眼はどうするか今すぐ答えを求めている。目的地までまだ距離はあったはずだ。魔術師団に待ち伏せされていたなんて。
 今更何の用だ。連れていくなら事務所で会ったときに無理矢理連行したはずだ。邪魔ならわざわざ相手なんかせずに早く国境を越えればいい。こちらには国境を越える術がないのだから。
 翼に手のひらを向けて制する。どちらにしろ相手の出方を伺うより他ない。
 幌に手を伸ばしたところで、幌が動いた。外からこちらを覗き見るのは見たくない顔だ。
「捨てられても追いかけてくるとは。大した犬だ」
 薄笑いの浮いた早坂の顔を殴りたくなったが、殴るより先に手首を捕まれた。力任せに引っ張られ、荷台から転げ落ちる。
「さすが、過不足無い編成ね」
 目の前に進み出てきたつま先と声はピアだ。
「颯とイオレがいないのは意外だけど、まあいいわ」
 暮葉と翼の声が遠い。あの子のことだからすごい大声を出しているはずなのに。そもそもピアの声以外がまるで遠い。
「男も連れていくのよ。彼はその娘に言うことをきかせるのに使える」
 魔術師に指示する様子からは、ピアが無理矢理連れてこられたとは思えない。どうして。 自身に言い聞かせていたことが揺らぐ。
「生け贄は手に入れたか。ああ、違った。花嫁か」
 足音がピアのすぐ近くで止まった。彼女のつま先が向きを変える。声はあの天界人だ。
 腹ばいの状態から顔を上げようとして、上から抑えつけられた。後ろ手に縛られる。
「跡を付けないでよ。見つかったら受け取ってもらえない」
 ピアの声は親しげに聞こえる。事務所で会ったときとは態度がまるで違う。ここにおびき寄せるために一芝居打ったとみえる。
「疑問に答えてあげる。あの竜に会うのか? ご名答。あいつはあなたを追って学校を占拠した。その時にはあなたは卒業していたけどね。孤島にいたから知らなくて当然」
 最悪の事態になっただけだ。別に想定していなかったわけじゃない。最悪こうなるかもしれないと分かっていて来たのだ。覚悟して来た。それなのに。
 魔導師は満足げに息をつく。連れてって。今度は彼女の声さえ遠く感じる。