竜と世界と私

一章-三

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 魔術師団の馬車は魔術で動いている。だから正確には馬車ではない。それでも馬車と呼んでしまうのはどうしてだろう。アレイシアはぼんやりと浮かんだ疑問を、頭を振って振り払った。馬車には暮葉と翼とピア、他に三人の魔術師が同乗していたが、馬車が急停車したため魔術師は不在だった。
 同じく後ろ手に縛られた暮葉は不安そうに翼と寄り添っている。彼の顔は腫れ始めて、襟ぐりがよれている。魔術師団も随分乱暴になったものだ。
「大丈夫よ。この内の誰一人殺させやしない」
 ねえ、声を出す前にピアが口を開いた。すかさず彼女を睨んだ翼に人差し指をあげる。
 これはチャンスだ。
「やつらの前で竜に証明してもらう必要があることがあるの。こうなったのは私のミスよ。ごめんなさい。でも、信じて欲しい」
 彼女は珍しく早口でまくし立てた。その眼と声は真剣だ。口を挟む隙がない。
 やはり彼女は魔術師団と天界人と好きでつるんでいるのではなかった。そう信じ始めてしまう。
「すぐそこにあの竜の住処があるの。暮葉さんの件もここでけりをつける」
 あの竜。ピアと偉そうな天界人のやりとりがよぎる。「生け贄」、「受け取ってもらえない」、「あの竜に会うのか? ――ご名答」。昔は染みの様に消え、先日事務所で色を失って消えたあの竜。次会うときは嫁ぐことになるだろうと思っていた。もしかしたら、ピアが交渉するなら、もしかしたら。
外が騒がしい。足音と、近づいてくる声は早坂だろうか。お願い。ピアが三人を見回し囁き、立ち上がった。馬車の戸を開ける。
「弟子と母親だ。説明をお願いしたい」
 早坂は戸が開いたことに驚いたみたいだったが、ピアに降りるよう手を振ってこちらに背を向ける。ピアと入れ替わりに魔術師が乗り込んできて、戸が閉められた。
 颯は国境に行くことになったと言っていたが、東の国境だっただろうか。あの時は動揺していて、確信がもてない。でも彼女がどうしても外せない用件みたいに言っていたのは覚えている。娘が関わっていたのなら納得だ。それにしてもイオレはなぜこんな所にいるのだろう。
 外で誰かの言い合う声が聞こえる。馬車の戸を開けたのはピアだ。開けた戸口でなお、外で言い合いを続けている。別にいいじゃない。彼女が一方的に終わらせて乗り込んできたが、続いて早坂が入ってくる。さっき乗り込んできた魔術師が早坂に追い払われるように降りていった。言い合いの相手は彼だろう。ピアが不満げに押し黙った。
「王宮魔導師の一人が実験のためにこの町に来ていて、少し足止めされています」
 こちらは今まるで捕虜だ。そんな女に対する口調の変わらなさが嫌味に聞こえる。早坂は分かりやすい男だ。嫌味というわけではなくただ普段通りに話しているに過ぎないのだろう。ただ、それだけのことなのに神経が逆立つ。
 魔導師の実験といえば革新的な新しい魔術の開発実験と決まっている。こんな辺境で、ただ通過するだけの馬車を止めるとは、ただ事ではない。確かに魔術実験の最中に魔術師団が現れれば悪意的に捉えられるのは当然ではあるものの、それなら足止めなどせずにさっさと素通りさせてしまえば良い。もしもピアの実験中に早坂どもが現れたら、アレイシアはそうする。つまり、イオレの取り巻きが馬鹿なのか、素通りさせるのも嫌なほど重要な実験かのどちらかだ。学生時代の研究内容からして後者だろうか。
「竜に引き渡す前にあなたの研究を引き継ぎたい。あれだけ価値のある研究を放り出して逝くのは心残りでしょう」
 ふざけるな。思わず出た声が大きい。立ち上がろうとする肩を、早坂に抑えつけられる。鳥肌が立った。身体を捻って振り払う。
「横取りなんて許さない」
「研究まで一緒に死ぬ必要は無い。魔術粒子の物理的特性を研究しているのは、あなただけだ」
 言い聞かせられなくても知っている。誰もが当然に思っていることに疑問を投げかけ、解明し発展させ実用化する。魔術粒子の物理的特性の解明と応用――唯一無二の研究。研究者としてこれほど嬉しいことはない。この研究を進める使命は誰にも渡さない。たとえ死んでも。まさか、早坂が天界人と組んでいるのはこのためか。
「基礎研究は卒業論文にまとめた。そこから勝手に進めればいいじゃない。人の成果を横取りなんかせずに」
 早坂は分かりやすい。彼は反論しなかった。魔術師団の上層部に名前を連ねる一人として、魔術師として、研究者として、彼にもプライドがある。「できない」と言えないのだ。
「あなただけには引き継がない」
「しかし、あれは重要な研究だ。魔術に新しい可能性を見いだせる」
「そんなにこの研究が大切なら、私を死なせずに済む方法を考えれば」
 早坂は今度こそ口をつぐんだ。思った通り、早坂はあの天界人に意見を言える立場ではないらしい。それにしては、あの天界人と対等に見えたピアに対して態度が大きい。彼は必ず目上の人間にごまをするやつなのに。
ふと視界に入った暮葉の顔が青ざめて固まっていた。翼も同じ様な顔で、言葉を探しているふうだ。
「死ぬより怖いことだって」
 彼がやっとひねり出した声は震えている。だから死だとは知らなかった。そんな所だろうか。ピアは一体どんな説明をしたのだろう。
「竜に性別の概念はないの。ただ女性を好んで食べるから、生け贄を捧げることに婚姻という隠語を使っているだけの話」
 ここまで来てこんなに簡単に口に出せるとは思わなかった。未練がある。死にたくない。でもあの竜に引き寄せられていると感じるのだ。会う理由が何であろうが、結果として命を落とそうが、会わなければならないと。その時を決めるのが自分か相手か、問題はそれだけだ。
「ごめんなさい。私、なんてことを」
 暮葉は既に鼻声だ。彼女は、きっと分かっているのだろう。彼女のために遠からず竜に会う必要があった、その時に交渉材料としてこの命を使う予定だったと。
「その時を自分で選んだんだもの、まだましよ」
 姉達よりは。ひっそり、胸の中で付け足す。一番上の姉が”嫁いだ”のは、突然現れた竜の機嫌をとるためにちょうどいい年頃の女性がその時彼女しかいなかったからだ。それ以来、他の姉達もあれこれと理由をつけられて花嫁を押しつけられてきた。指名された姉は急にその日が来て、家を出る間もなく食べられてしまった。それに比べれば、腹を決められただけずっとましだ。
 そもそも暮葉だって命がかかっている。生きたまま喰われるのと、死んだように生きるのとでは比べようも無い。
 戸が開いた。魔術師が顔を覗かせる。
「やっと軍が道を空けました。出発します」
 分かった。言って早坂が振り返りもせず馬車を降りていく。