竜と世界と私

三章-二

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 頬がこそばゆくて、アレイシアは眼を覚ました。気を失うなんて。そう思う頭の隅に、仕方がない、という言葉がある。気持ちの悪い感覚だ。まるで頭の中にもう一人いるような。
 どうしてだろう。緊張と大怪我との、普段しないことが連続して疲れているのかもしれない。まだ終わったわけではないのに。
「あの女を助けに行かなければな」
 ナディアの声が近くて、とっさに腰が引ける。竜は静かに笑いながら頭をもたげる。
「白伊颯。あの女の買った恨みは殺されるには十分だ」
 あの女? 聞き返すより先にナディアの答えがくる。なんだか気味が悪い。竜は再び笑う。
 頭痛がする。白伊という姓は知らないが、馬車の荷台に乗せられていたのは颯で間違いない。数年前まで激戦区だったこの地域で大戦果を挙げた彼女に、当時敵国だった隣国の兵士はさぞ恨みを募らせていることだろう。
 国境でなにかがあったらしい。しかも恐らくそれはあの三人が仕組んだ。国境に最も近いあの町にイオレがいたと早坂が話していたから、颯はそのために彼女にとって危険な場所にも関わらず国境まで来たと考えられる。早坂達の様子からしてあの母娘までもが誘い込まれたのではないだろう。つまり彼女は――ジョンと早坂が何をしたにしろ――巻き込まれたに過ぎない。いや、あの二人ないしは三人以外は誰だって巻き込まれたに過ぎないのだ。
「ふふん、そうやって自分を納得させなければ行動を起こせないとは面倒なことだ。義憤は結構だが、この世界がどうなろうが私達には関係がない。お前はじき私に肉片一つ残さず食べられ、私はその後死のうが生きようが興味がない」
 竜とは、その命に執着しないものだ。ナディアの声が頭に響く。ぞっとした。これはなんだ。
「なんなの、さっきから。見透かしてるみたいに」
 見透かしているどころではない。まるで頭の中を覗いているみたいだ。
 起き上がるのに手をついて、気付く。左腕がある。あの痛みは本物だったはずなのに。
「当然だ。それは、私だからな」
 ナディアが左腕を見遣る。喰った左腕の代わりに自らを構成する魔術粒子で新しい腕を造りくっつけたというのか。なぜ、よりも、そんなことが出来るのかという驚きと興味の方が勝る。竜は笑った。満足げに。
「それでこそ我が妻。全て私のものにする時が楽しみだ」
 妻? 竜に性別の概念はない。繁殖をしないからだ。若い女の肉を好む竜に生け贄を捧げることを、隠語として婚姻という言葉で表しただけ。
「当てこすりや皮肉ではない。私はお前を愛している」
 とてもそうは思えない。大抵のことでは死なない竜の暇つぶしだろうが、なんて悪趣味な。人間や生命というものをまるで軽視している。
「さて、私をお前のものにしてもらうことにしよう」
 この腕でこの身はナディアのものになった。所有の証ということだろう。互いに互いの身体に所有の証が欲しいのだろうが、竜に対してそんな手段は持っていない。ピアのとっておきでさえ傷一つ付けられないのだから。
「私がお前の中を見ることができるように、逆もまた可能だ。アレイシア、お前になら何だってできる」
 腕を通して繋がっている。ナディアの――竜の知識を我が物にしている。世の魔術師の夢だ。あのピアでさえ、竜に聞かなければ分からないことがある。あのピアを超える知識を手に入れた。あのピアを超える知識を。
 それでこそ。
 ナディアが満足げに思うのを感じる。竜は試している。それを見つけ出すことができるかどうか。興奮が全身を駆け巡って火照る。受けて立とうじゃないか。
 風が生暖かい。遠くに喧噪が聞こえる。見上げれば、天井の一部は崩れていて青い空が垣間見える。在学中、塔の最上階には鐘があった。ひどい強風でもない限り鳴ることがなかった鐘はもう吊されていない。ナディアが飛来したときにどこかへやってしまったのだろう。鐘があったままでは頭がつかえてしまったに違いない。ナディアの記憶を通して思い出すことができる。ここに来たのは夜だ。止まり木にちょうどよさそうな塔の屋根に手を掛けたら穴が空いてしまった。そのまま中に転がり落ち、鐘に頭をぶつけて――頭の中が塗り替えられそうなほどの大きな音がした――視界がぐらぐらして定まらないまま、苛立ちに任せて振った尾が鐘をどこかに飛ばした。尾がひどく痛んだ。
 それじゃない。ナディアの声が聞こえる。そうだこれじゃない。でもこれで大体わかった。
 ナディアの知識の中に知っているものはほとんどない。だが探しているもののことは知っている。生まれつきの感性の問題でできないだけなのだから。見つけた。魔術としての召喚のプロセスは組み立ててみるとこれを自力で発見できなかったことが悔しくなるほど、知っているものの応用の組み合わせだった。
 ナディアが足からくろく染め上がっていく。白は天界の魔術粒子の色、黒は地上のものだ。そういえば彼が暮葉に召喚されて竜を受け止め王宮にもろとも墜落したとき、身体は白色だった。あの後事務所で出てきたときもそうだ。
「それは朱伊暮葉の前で話す。さあ行こうか。私達には時間があるが、白伊颯にはない」
 悪くない。竜は呟いて身を震わせ、みるみる縮んだ。人の頭ほどの大きさで止まり、羽ばたく。すい、階段へ入っていく後ろを追うが、いまいち腑に落ちない。折角所有の証として召喚し直したのに、悪くないだけなのか、とか、暮葉はそんなに特別なのか、とか、どうしてそんなに颯を助けたがるのか、とか。
「嫉妬か」
 塔の螺旋階段を下りながら、ナディアがにやにやする。否定する気にもならない程むかつく。
「頭から齧り付かないよう我慢している。片足を喰ってもいいが、また気絶されても困る」
「それはどうも」
 むかついて言いたいことに頭と口が追いつかない。できる限りの大声でできる限り当てこすって言った。
 颯に時間がないのはわかるが、暮葉と翼はどうなっただろうか。二人を連れて来たのはピアと同じ理由――ナディアを呼び出す奥の手だったから、巻き込んでしまった責任は果たさなければならない。せめて無事を確認したい。
「朱伊暮葉は生きている」
 ナディアは確信している様だ。階段の最後の一段を下りて、どうして、言いかける背に固いものが押しつけられる。
 三度目の感覚は前二度と違う。冷たく丸い。恐らく円柱の底だ。物騒な異人が持っているあの黒いものの先端は確かこんな形ではなかったか。
 ナディアは空中で羽ばたきながらじっとしている。面白がって様子見に徹するらしい。
 肩越しに後ろを振り返る。イオレと同じあおい髪の男だ。髪色もそうだが、顔立ちが翼に似ている。
「一先ず案内を頼もうか」
 男の声には隠しきれない焦りがある。