竜と世界と私

三章-三

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 あの、血で塗り固められた路地を目にしたときの気持ちは形容しがたい。
 榊麻耶を釣る作戦からは外された。だが、娘の母親にして元恋人の女の考えそうな事など簡単に予想できた。結果としてそれは当たっていた。作戦を指揮していたメイズはまんまと嵌められはしたものの、目標の確保には成功した。
 たが、あんなむごたらしいことになるとは予想がついていなかった。細い路地が血で黒く照らつき、人体が散乱していた。武器も根こそぎない。武器を持ち去ったのは翼だろう。あの中を漁った弟もどうかしているが、あれを一人でやった女は正気じゃない。流風の知っている颯はこんなことができる女じゃなかった。男から情報を引き出すのは誰よりも上手かったが、腕っ節は強くない。そのくせ度胸はあるから、何度危ない所から助けたかわからない。十年以上会っていないのだから、変わったのだといえばそれまでだ。だが、こんな変わり方はあんまりではないのか。それを、命令されるがままに殺し続けてきた自分が今感じるとはなんて皮肉だろう。
 だから彼女を追った。行き先はどうせ男の家だ。それが朱伊皐月の元だというのがひどく気に入らなかった。あの家で医者をしていた男だ。颯があの家を抜け出した原因を突き詰めれば、あの男のせいでもある。それが原因の全てではないが、一端を担った男。そんな敵の男と、書類上結婚したり、別れたと言ったり、そのくせ未だ懇ろだったりしている。そんな女じゃなかった。それに関しても自分のことは棚上げだ。気がつけば腕を振り上げていて、昔と同じように彼女を殴っていた。颯がせせら笑っていたのが耳にこびりついて離れない。ほら、お前はそういうやつなんだよ。そう言われたような気がした。そこで娘の名前を出したのは間違いなく保身のためだったと思う。あの場から連れ出さなくても、彼女は翌日国境に行っただろう。ただあの場で――憎き朱伊皐月の前で――昔の女に逆上して殴り続けたり、変わったつもりの自分が全く変わっていないことを見せつけられるのが耐えがたかった。
 あの男に嫉妬している。それは認める。再会した弟にさえ嫉妬したのだ。あんなに似るとは考えもしなかった。それなのに、弟と颯は何年二人で住んでいたって? だが、それを、あの男や弟に知られたくはない。
 これは嫉妬だ。独占欲でもある。しかしカレンに対する愛情とは異なる筈だと思っていた。カレンは無邪気で闊達で、天真爛漫を絵に描いたような女性だ。その明るさに救われて、か弱い彼女を放っておけなくなった。本気だった。大切に、大切にし過ぎて、付き合って数年経つが実はまだ一度も誘えたことがなかった。
 その彼女が一緒に逃げようと言った。その時にわかってしまった。彼女と一緒に逃げたら、異人部隊に追われている颯はどうなる? そもそも国境から無事に帰って来られるかどうかもわからない。この自分の助けがなければ。
 だから部隊の倉庫からバイクを盗み、まる一晩走らせて国境まで行った。だが到着した時にはイオレの魔術実験が行われた後で、颯は騒ぎに乗じて国境を侵したとかで隣国の兵士に連れ去られていた。行き先を聞き出すのにかなり時間を使ってしまったが、メイズの先を行っていることは確かだった。
 行き先は娘の通っていた学校だった。国境が動いた関係で今はもう使われていない。建物の端にくっついている細長い塔から侵入した。しらみ潰しに探すには広すぎる。そこで階段を下りてくる声と足音が聞こえ、階段の下で待ち構えていた。どこの誰かはこの際どうでもいい。ただ案内人が必要だ。
 金髪の女は肩越しに振り返った。あおい眼。なかなかの美人だが鼻が少し低い。ええと。女は緊張感のない様子で言いよどんだ。
「ここに女が連れてこられた筈だ。隣の国の軍服を着ている。案内しろ」
「どこにいるかまではわかりません」
「それなら、いそうな所だ。行け。時間が惜しい」
 ぐっ、押しつけた銃口を押し込む。女は数歩歩いて、立ち止まった。
「もし違ったら本当に申し訳ないのですが、もしかして翼君のお兄さんじゃありませんか? 環、違った、イオレのお父様では?」
 環は白伊家を出るとき颯と決めた娘の偽名だ。この名前とイオレを結びつけられる人間は限られる。
「私はアレイシアといいます。娘さんが弟子入りしていた魔導師の助手です」
 とっさに出る嘘ではない。だが出来すぎている。どうしてそんな人間がこんな所にいるのか。
「確認する時間はない。行け」
 必要なのは案内人だ。それが誰だろうが、この際知ったことではない。流風はアレイシアの肩を押した。彼女はよろけて一歩踏み出す。